自己責任と社会問題の境界線 水谷竹秀『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」
この間「自己責任」について書きました
全くの偶然なのですが今日読み終えた本の著者も
「自己責任」について悩み、考えた軌跡を本に残していました
・自己責任っていうけど、その人の状況は外的要因(社会背景など)の影響を一切受けていないの?
・でも同じような外敵要因の中で育っても人によって違う結果が出てる
・じゃあ僕たちは自己責任と社会問題をどこで線引きすれば良いのだろう?
という問題です。
僕が読んだ本は、「日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人というものです
とっかかりはフィリピンについてもっと知りたいと思って購入したのですが、
この間僕が考えていたこととドンピシャで被っていたので縁ってあるんだなあと感じます
この「困窮邦人」という言葉。2012年頃に社会的に有名になったワードらしいのですが僕はこれまで知りませんでした。
何らかの理由で外国に行き、金銭的または精神的な理由で日本に戻れず貧困生活を強いられている日本人のことを言います。
中でもフィリピンには困窮邦人が圧倒的に多く、その理由としては
・フィリピン人が知らない人でも救おうとする国民性を持っているため
・日本人が金銭的に贅沢な暮らしがしたいので物価の低いフィリピンに逃れたため
・困窮邦人に男性が多いのは、フィリピン人の女性を追い掛けてフィリピンに行ったため
だということです。
以下、本文の一部を省略しながら引用
人間は本来弱くはかない。その弱さは、何らかの弾みで時に人を思わぬ方向に導く可能性がある。
また、ふとした出会いが人生を大きく変えることもある。
それらを全て含めて「自分の現在の姿は自分自身が選んだ結果だ」と言い切流ことはできない。
(困窮邦人の問題を受けて)それでも社会は「否、あなたが選んだ」と囁いているかのようだ。
ホームレスとして生活している人は、全て彼らの行動の結果だと言わざるを得ないのか。
ニートにホームレスに引きこもり、全てが自己責任ならなぜあえて社会問題として取り上げるのか。
「選んだ」と断言できる人は、選べる立場にいるからそう言えるのではないか。
問題としては、
日本に「国援法」というものがあり、困窮邦人に帰国のための貸付金を与える法律があるのですが、
もちろんこれは税金から出るわけで、世論感情として「真面目に働いて収めた税金が自分の都合で海外に行った(特に遊びで行った)人のために使われるの?」という引っ掛かりが生まれます。
それが自己責任論に繋がっているということです。
でも一方で困窮邦人の多くが日本社会に適合しなかったためにフィリピンに渡っているという事実があります
教師を辞めてフィリピンに行く間にいくつか夜間の派遣労働を経験しましたけど
多くの人がデイタイムの普通のお仕事に適さなさそうな人ばかりでした(しかも多くが男性でした)
彼らが社会に適していないのは単純に彼らのせいであるとは言えないし、
一方で社会構造だけのせいだとも言えません
これが自己責任と社会問題の線引きを難しくしている原因です
一方、フィリピンでは宗教や国民性の関係から自分たちが貧乏でも弱者を助けようとする人がいます
キリスト教の隣人愛の精神です
日本でうまくいかなかった人たちが海外、特にフィリピンに流れ着き、
その優しさによって堕落して行く、そして困窮法人となる。
という循環が生まれています
この本は相当ヒットしたらしいのですが僕はこれまで知りませんでした
読者の反応はふた通りで、
1 こんなダメ人間(困窮邦人)に同情なんかできない!
2 今の日本社会を考えると明日は我が身かもしれない
同情的か、批判的かの立場に立っています。
僕はどちらでもなくて、もちろんフィリピンは居心地が良いですし堕落して行く困窮邦人の循環を肌で感じるのですが
それでも「だから日本はダメだよね」とは言いたくないです
海外生活を続けるにしても、撤退的になってしまっては意味がないですし。
でも一方で、困窮邦人やニート、引きこもりなどの問題を個として見るんじゃなくて
「何でそういう人がいるの?」「何が問題なの?」と自分なりに考えることは必要なようです
(自分なりに、というのはそういう社会考察はたくさんありますが、自分で考える必要があるということ)
僕の友人でも数人、仕事を(ネガティブな形で)辞めた人がいますし、
それに対して「その人の人生だし自由だよね(自己責任)」と考えていたのですが
もっともっと疑問を持つべきでした。それに気づくことができました
逆説的な言い方になると、自殺するまで仕事を根詰めるのはなぜ?という疑問も考えていかないと、と思います。