じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

怒られることへの拒否感

先週の金曜日、上海に向かう飛行機の中での話です

 

 

飛行機の出立が遅れ、乗客はシートベルトを締めた状態で2時間ほど待機していました

その間、僕はトイレを我慢していたので飛行機が飛び立つとすぐにトイレに行きました

(ちなみに僕は、両側に三列ずつ座席がある内装の廊下沿いの席です)

 

トイレから戻ると、窓際席の女性がおらず彼女もトイレに行っているようでした

僕は、戻るのを若干意識しながらもPCを出して先程読み終えた本の感想を書こうとしていました

 

するとポンポンと肩を叩かれたので、奥の席に行けるように立ち上がり「どうぞ」と言うと

何か中国語でこちらに訴えかけて来ました

 

僕は中国語が分からないので困惑していると、

近くの男性が英語でまくし立てるように「She waits just a moment」と言われました

 

その意味の真意がその時わからず、とりあえず英語で奥に戻るよう女性に促しました

その時のその女性とその女性の友人、そして僕をまくし立てた男性の皮肉な感じの笑いが忘れられず

この出来事の意味をモヤモヤと考えていました

 

 

 

男性の英語での言葉は、彼女の言い分を翻訳したことなので、

「She waits just a moment。から彼女の真意を考えました

 

 

短絡的に考えると

「ずっと待っていたのに君は立ち上がるだけで謝りもしないの?」

というメッセージが込められていると考えられます

 

僕は反論の意味ではなくて単純に

「なんですぐに声かけないで、イライラするまで待ってたの?」と疑問を持ちました

 

この彼女には彼女の言い分があり、僕には僕の言い分があるという平行線なのです

 

 

ただこの出来事の直後、結論(平行線であるということです)は出たはずなのにまだモヤモヤは止まらず

このことについて考え続け、僕の怒られる事に対する拒否感に気づきました

 

仕事をしていた時もそうだったのですが、怒られるとすぐちょっと泣きそうになる

何か失態をおかしてまだ怒られていなくても泣きそうになる

ネガティブなので怒られることを想像しても泣きそうになる

 

この現象は自分の特異な生理的感情なんじゃないかと思い当たりました

 

 

なんで怒られる事にそんなに拒否感があるのだろう?

 

このような生理的感情は子供のことの体験から形成されると聞いたことがあるのですが、

あんまり怒られた記憶はないです。

もしくはトラウマ的な記憶を思い出さないように忘れているだけかもしれませんが。

 

 

 

論理的に考えて怒られる事にデメリットはありません

怒られたからといって何かを失う訳ではないですし。

 

それでも僕は怒られることへの拒否感から普段の行動が制限されていることが多々あります。

怒られるのから避けてしかるべき行動ができなくなる方がよっぽど自分自身のデメリットになるように思います

そう頭で分かっていても怒られることを思うと、なんだか気がひける様な気持ちが生まれます

 

 

 

最近、僕が意識しているのは視界を狭く狭く持つということです

広く持つということが良いことだと思って疑ってこなかったからこそ

狭く持とうと思っています

 

 

広く持つことで周囲の情報はたくさん集まるしそれによって適切な状況判断をする事に長けています

一方でいざアウトプットするときに迷いを生むのも情報です

 

僕は感化されやすいので、

本を読んで「よし、明日からはこういう行動をしよう」と心から思っても

外的要因によってその決意がすぐ折れてしまうということが今までたくさんありました

広く持つだけだと、「後は野となれ山となれ」的行動はできないんじゃないかと思います

 

 

 

できるだけ多角的に情報収集をした後は、

視界を絞って絞って絞って周りの目なんか気にしないで自分の信じたことができるようなスイッチを持とうと思いました

 

 

 

 

 

 

 

 

後記

 

教師をやっていた時に、子供は多感な時期に得た思考を大人になっても持ち続けるので、指導の一つ一つに入念な注意が必要だと教わりました

それでも人間ですから感情的になったり、ひいきをしたり、差別したり、とてもではないですが理に適っていない指導を僕も含めてたくさんの先生がして来ました

特に理に適っていない指導は「生徒がルールを破った時」に多く見られました

そのルール自体が間違っていたり、適切でいなかったりする場合があっても僕達は「ルールだから」「常識だから」を精神的支柱に指導をしていたように思います

 

子供の方が頭は柔軟ですから「なんで?」という疑問に答えられないことは沢山ありましたし、本当はその度にルールを検討していく必要があると思うのですが

そんなことはできませんでした

 

「怒られること」や「視界が狭いこと」は常識的に考えると良いことだとは言えません

でもその常識を一度でも疑ったことはなかったですし、

実際僕にとっては「視界が狭いこと」が理に適っていて、プラスに働いているように思います

僕にとって、僕の持つ常識を再検討する必要があるのだと最近感じています

でなければ何のブレークスルーもないような気がしています

 

 

船影を辞めた年、アドラー心理学の本の繋がりで哲学を少しだけかじったのですが、

善を説いたソクラテスは明らかに贔屓された判決で死刑を宣告された後、

逃げられる状況でも逃げませんでした

 

なぜなら

逃げることは悪いこととわかっているから

死ぬことはまだ経験していないから良いことか悪いことかわからない

だから、悪いと決まっていることを選ぶのではなく、もしかしたら「良い」かもしれない方を選ぶ

ために逃げなかったらしいです

 

 

これって「死ぬことは悪いこと」だという究極の常識を疑ったってことで、

ソクラテスがこだわり続けた常識を疑うという姿勢を端的に表している話で僕はとても好きです

 

 

もう一度、自分が疑いもせず持ち続けている常識に気づいて再検討して行きたいと思います