lonelyとaloneが似ていると思った僕は危険信号 佐渡島庸平『WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE』
we are lonely,but not alone.
私達は孤独を抱えている。でも一人ではない。
we are alone,but not lonely.
私達は一人だ。でも孤独じゃない。
本のタイトルである前者は孤独であるということを前提にしている。孤独であって当たり前で、孤独でない人はいない。みんなが抱えるものなんだ、という感じ。
後者の捉えではみんな分断された存在なんだ、でも孤独ではなくて一人一人が関わり合っているんだ、って感じ。
lonelyとaloneは似ているように感じるけど全然違って、孤独であることと一人であることに因果関係はない。
でも僕は一人でいることに不安を覚えて、孤独だと感じる。
友達がいない、賛同者がいない状態だと自分が正しい方向に進んでいるのか不安になる。
しかし前提条件として、人って孤独なんだと捉えること(we are lonely)で、孤独を感じることは当たり前で、一人でいることに焦りや劣等感を覚えることはなくなる。精神的自立とはそういうことなんだろうと思う。
そういう意味で僕はまだまだ自立していない。やっぽりSNSで反応がなければ寂しいし、ブログだってコメントはないにしろ、閲覧数が少ないとちょっと悲しい。
どうすれば孤独であることを認めることができるのか。僕は、自分が他人の賛同なくとも自信を持ってやれることをしているかどうかだと思う
仕事をしていた時は、人から認めてもらってモチベーションが上がったし、「いいね!」を貰うと嬉しかった。
認めてもらわないと不安になったり、続けるだけのやる気を持続できないことが多かった。これはみんな喜ぶだろうと思ってやったことが案外不評ですねることもあった。承認欲求が物事をやる上での原動力になっていたのだと思う。
でも人の反応は操作できないし、人の評価を得られることに自分の行動を絞ると本当にやりたいことやすべきことからかけ離れてしまう
ひねた見方かもしれないけれど、純粋に助けたいという気持ちだけで参加するボランティアスタッフってどれだけいるんだろう
結局、自分にとってなんらかのプラスがあるから参加するわけであって一方的な支援じゃなくて相互的にメリットないと持続はしないとも思う
同意なくて当たり前。反応なくて当たり前。それでもやりたいと思うことを発見できた時、「これをやめるくらいなら、孤独でもいいや」って気持ちになれるのかな?
多分、自分の場合こうやって自分の考えを書くことは誰に認めて貰わなくてもやるだろうと思う
珍しいものを食べたり、珍しいところに行くのはちょっと他人に自慢したい気持ちがあるから本当の本当にやりたいことではないのだと思う。でも知らない場所で人と会って喋るのは特に自慢する気持ちがないから好きなことだと思う。
こうやって色々なことをやって見て、これ好き、これ嫌い、と分別して行くしか自分のやりたいことを見つけられない
今はローカルなことが好きなんじゃないかっていう仮定で自分の嗜好を探っているから、それに違和感を覚えたらまたアップデートしたい
ちょっと話はそれたけど、孤独を当然のように抱えるっていうのは今の僕には響くワードです
仮想敵の話を昨日書いたけれど、一生付き合う他人なんて知れているし、一生付き合う人は大抵自分の賛同者であることが多いからそれ以外の人のことを気にしても仕方がない
そんなことを書いている間に、ようやくセブ島に帰りました。明日(今日)からまた勉強がんばりまーす!