じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

語学留学の目的は「英語を喋れるようになる」ことか?

最近、マイノリティのあり方について書かれた本をよく読みます

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きっかけはフィリピンについてもっと知りたいと思った時に出会った

水谷竹秀さんの「困窮邦人」について書かれた本でした

 

社会に適合できず、逃げ場を求めてフィリピンに移住。

金銭的理由と居心地の良さが相まって日本に帰らない・帰れない人達について

書かれた衝撃的な内容でした

 

 

「だから居場所が〜」ではタイのコールセンターで働く日本人について挙げ、「人間の居場所」では日本の社会的弱者が形成するコミュニティ(居場所)を、「WE ARE LONELY」では、もっと一般的な日本人の、孤独への自覚とコミュニティ作りの重要性について書かれていました

 

最近、僕自身のあり方と居場所について考えることがよくありました

居場所とは所属であり、所属はアイデンティティ(あり方)でもあります

 

部活動や勤務先、役職など自分の存在について外的に定義することができるアイデンティティは、自分の内面に直結することがない上に、外見に分かりやすく、楽かもしれません

 

しかし僕の場合、肩書きを失った時、自分が何者であるかを考える機会はあまりありませんでした

それはこれまで脇道にそれず肩書きを持つ存在としてあり続けたからだと思っています

小学生、中学生(何部)、高校生(何部)、大学生(○○サークル、何学部)、教諭

 

そして教諭を辞めた今、3週間の空白期間を挟み、また学生という肩書きを得たわけです

空白期間の3週間ですら僕は毎日のように予定を入れて、肩書きのない状態をごまかしていたのかもしれません

 

このまま自分が何者であるかということについて検討せず生きていくということは

短いスパンでは楽ですが、長いスパンでは酷なことなのかもしれないと思います

 

そうかと言って肩書きのない自分に、確固たる自己なんて存在しないかもしれません

 

それでも自分が何者で、どうあるべきなのかということを最近は考えています

 

 

 

 

本題です

 

語学留学の目的は「英語を勉強すること」

こんなに簡単に答えが出ることなんかなかなかないかもしれません

なぜ教師になったのかと問われ答えに窮する僕だったからそう思うのかもしれませんが

 

一方で僕の留学には違う側面もあるということが最近の考えです

上記にもありますが自分の「居場所」を求めていたようにも思います

 

仕事は辞めたい。しかし全くのフリーになった時に自分の力でやっていく自信もない

そんな時に見つけたフィリピンの格安英会話。お金に余裕がない僕にはとてもありがたい話。英語留学なら外見にもある程度、恥ずかしくない理由になる、と言った書いていても情けない心理が働いていたことは否定できません

 

おそらく僕は次なる居場所を探していて、見つけたのが語学学校だった

そんな気がしてなりません

 

そして(喋ったことはないので憶測でしかないのですが)そのような語学留学生が

一定数いるということにも気づきました

 

彼らは語学留学に来て、授業以外は自国の友人と一緒にいて

母国語を喋り、ご飯を食べ、お酒を飲み、一緒に過ごしている

 

日本人同士が「お疲れ様でーす」などと声を掛け合う様子を見ていると

なんだか心が白けるような気持ちが最初の頃していました

本当に英語を勉強しに来ているのか?と疑問に思うことも多々ありました

 

しかし彼らも僕も同じで結局は居場所を探しに来たのかと思い当たりました

 

僕と同じように仕事を辞めて来た人、学校を休学して来ている人、

就活に失敗して、来季までのブランクを利用して来ている人、

多くの人が僕と同じように一定の覚悟と資金を消費して来ているわけです

 

もちろん中には本気で勉強しに来ている人もいるので一括りにはできないのですが、

困窮邦人と同じ構図で社会を追われて来た人、逆に切り捨てて来た人がいることは否めないように思いました

 

ここにいる多くの学生が人間関係を良好に保とうと努力しているように感じます

挨拶をし合い、笑顔を保ち、ご飯を一緒に食べ、居場所を作ろうとしているように思います

僕も同じで、学校の外側に居場所を作ろうと努力をしています

 

 

 

しかし、この居場所は期限付きでもあります。それも長くて数ヶ月といったものです

そう思うと僕は本当の意味での居場所はここには作れないとどうしても考えてしまいますし、居場所にいるだけの責任を果たしてもいないとも思うのです

(居場所の責任とは、ゲストからホストになるということだと思います)

 

この期間を経て自分は一体どうなっているのか?

オーストラリアも含めて年単位を消費させた結果、帰国後できることはあるのか?

こうやって自分の言葉を発しているのは、外国で無頼な生活を送っている時期に特有の浮かれ気分でしかないのではないか?

この消費活動を生産活動に転じることができなければ、また同じような生活に戻るのではないか?

と楽しいフィリピン生活の中でも不安を払拭することはできません

 

 

 

追記;

フィリピンに来て4週間、僕はできるだけ外向きであろうとしました

一番は自分の好奇心によるものからでしたが、もう一つの理由として

内向きの人たちを反面教師にしている部分もありました

自分はこの人たちとは違う、といった不毛な差別化をしていたのです

 

この間、マイノリティについてインターネットで本を探していた時、

こんな言葉を見つけドキッとしました

 

「マイノリティの人の中で、マジョリティを差別する意識が、とても強くなることもあるわけ。少数派には、「自分たちは特別だ」という意識が芽生えてしまうときがよくある。多数派に対しての「あいつらは凡庸で、私たちは非凡」という変な差別意識のようなものが生まれたりするのよ。」 

 

まさに今の自分だ、と思いました

この意識をなくしたいと思っていたのに今だに消せないこの意識

これを言語化したのが「逆差別」という言葉でした

 

「どんなにだらけているように見えても、その人はその人のベストを尽くしている」

という言葉が僕の好きな言葉の一つですが、本当にその通りで、頑張っていない人はいないですし、違和感を覚えるのはきっと自分と向かう目的地が違うからだと思います

 

無闇に「あいつは頑張っていない」などと言うような人にならないようにいたいと強く思いました