孤独を愛している
ちょっと今日SNSで友人とやりとりをして考えたことがあったのでまとめました
ここに来てから僕はとてもストレスフリーに生きることができています
それは孤独であるということを前提に生きているからです
自分はやりたいことをやるし、周りに理解されなくても仕方ないよね。それでも周りにいてくれる人を大切にしよう
と思っているから無理やり人間関係を作ろうとしたり、気を遣ったりすることがなくなったからです
働いていたころまではテンションを無理やりあげたり、頑張って周りのことを理解しようとしたり、いい人でいようと心がけていました
でもそんなふうに人間関係を頑張って構築しようとする理由は、一人でいたくないとか、一人である自分が周りからどう見えているか、とか結局は自分のためばかりだったように思います
でもそれは周囲の人を利用しているというか、装飾物のように考えているような気がして、むしろ他人を軽視しているようにしから思えないのです
今はとても一人の時間が快適で、それは自分の好きなことができているからなんですけど。
自分にとって無駄な時間がなくて、自分の時間を生きることができているのがとても幸せです
孤独を前提にすることが僕にとってのノイズフィルターになっていて、理解や同意を得られないことを前提に好きに行動ができるというのが快適すぎて、以前のマインドセットにはもう戻れません
そうは言ってもまだまだ他人が気になっています。完全に修行不足です。言行が不一致なのは格好良くないのでこの記事をポストした後改めたいと思います
追記
仕事をしていたころ、いい人であろうとしたということを受けて
そういえば仕事をしている時、親や友人、同僚に「森島は気を使うよね」と言われて真面目に悩んでいたのを思い出しました
自分では気を遣っているつもりはないのに周りには気を遣っているように見えている。自分は自然体でも他人と心的距離を詰めることはできないんだと落ち込んでいました
子供の頃は、気を使えることができる人がすごいというか、一目置かれるような気がする一方、
大人になればなるほど気を遣わずに相手との心的距離を詰められる人の方が愛されるように思います
それは希少価値の問題で、子供の頃は気を遣わないのが当たり前、大人になればどうしても遠慮してしまうから、気を遣っていない人は表裏がなさそうで安心するというか。
そういう意味で僕は愛されたかったですし、それでも自然体で気を遣ってしまう僕は愛されることが難しいのかなと感じていました。
今考えたら、愛されようとしていること自体があざといですし、本末転倒なんですが。
それでも社会人としてがんばっていた頃の僕は、どうにか自分の気持ちを安定させようと小難しいことばかり考えて回り道をしまくっていました
また組織に戻った時に、今の自分のマインドセットで生きていくことは難しいかもしれませんがそれでもこの生き方はこだわって持ち続けたいです
僕は理想主義者だと職場でも言われていたのですが、それでも敢えて言うと
この仕事が大好きでひたむきな人が集まってひたすら楽しく熱狂しながら働ける職場や仕事を探そうと思います