じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

幸せに生きるための「人生を降りる」という選択肢

「人生を降りる」という表現が五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』(講談社より出版)という小説の中に出てきます。

 

プロのジャズピアニストの主人公が、熱中していたジャズへの熱意を失い、辞めてしまう時に「人生を降りる」という表現を使いました。その後、主人公は醒めた気持ちで他の仕事に就きました。

 

 

佐藤優の『十五の夏』でこの言葉に出会い(佐藤優の本の中で、五木寛之の小説の一節が紹介されていました)、それ以来、ずっとこの言葉のことを考えていました。

 

受験勉強をしていると、偏差値の高い学校に進学することを人生の目標と勘違いしてしまう危険があると大高先生は強調した。そして、自分の父親は満州で大きな農場を経営していたが、日本に戻ってきてからは、全く仕事をする気をなくしてしまい、母親が苦労して自分と姉を育ててくれたという話をした。大高先生自身も高校時代には牛乳配達のアルバイトをしていたという。高校、大学で奨学金を受けた。返済が免除される関係で教育学部の数学科に進み、教師になったということだ。自分の父親にとっては、満州での開拓がすべてで、人生のエネルギーを使い果たしてしまった。もし、父親が「人生を降りる」可能性があるということを考えていたならば、戦後、腑抜けになって、勤労意欲を完全に失うことはなかったと思うと大高先生はいった。

佐藤優『十五の夏 下』幻冬社より引用)

 

 

 

「人生を降りる」は、妥協、折衷、折り合い・見切りをつける、諦める、逃げるという一見ネガティブな言葉に繋がります。

でも僕はそうは思わない。自分の可能性の中で実現可能な未来を見据えるという意味なのではないかと思うのです。

 

世の中には、努力肯定論が根強く存在しています。

僕はそれに対して反対をするわけではないのですが、何事も「頑張れ、頑張れ」と努力に焦点を当てすぎている現状があるように思います。

 

「頑張る」ということが何かをする際のスタートラインになっているというか、それがなければ成功や幸福がないというか、頑張らないと駄目だという価値観が押し付けられているように感じます。

 

でも頑張るということ抜きに僕たちは幸せになれないのでしょうか。

 

頑張るということは、表現を変えると他人よりもある事に時間を割く、という事だと思うのですが、競争社会に足を踏み入れると勝ち続ける事でしか成功や幸せを感じる事ができなくなります。「その人なりに頑張ればいい」という言葉もあるけれど、結果ありきの世界で努力の絶対評価は不可能なんじゃないかと思うのです。

 

最近、よく自分にとっての幸せはどういうものなのかを考えます。

仕事をしていた頃の僕は、車や家、高価な服などを持つことが幸せだというような既存の価値観に自らを当てはめていました。もちろんそれらを手に入れた時、瞬間的に満足をすることはできるのですが、持続させることは困難です。それに、それらの「幸せ」は誰かが作ったものなので、僕という人間がそれによって幸せになれるかどうかは全くの別問題です。

 

だからこそ僕は

自前で、努力の必要がなく、持続可能な幸せを見つけたいと思うのです。

今僕の幸せは、自分の問題意識に合わせた本を読むことと、毎日ちょっとした(変な)食べ物を買って食べてみること。これなら持続可能ですし、好きでやっていることなので頑張っている意識もありません。読書が苦痛な人や食べ物に興味がない人には無理な生活だと思うので、やはりこれは自前なのだと思います。

 

「人生を降りる」とは、社会的成功や他人との競争を離れて、自分に合った持続可能な幸せを自分で発見していくことだと思うのです。そしてたまに、ほんのたまに熱狂できるぐらい夢中になれるものがあれば最高です。

 

 

もう一つ、本を紹介したいと思います。これは僕が仕事を辞めることを決めて、これからの生き方を考えていた時に出会えた良書です。ちょっと長い引用ですが、ここまで読んでいただけたなら是非読んでいただきたいです。

 

 

 すべての人は、いつか人生を諦めなければなりません。なぜなら人はみんないつか死ぬからです。その時点では、誰もが人生を諦めることになります。

 けれどその前に、「いつ、どのタイミングで、どんな理由で、人生のどの側面を諦めるか」ということは、人によって大きく異なります。なかには「死の間際まで諦めなかった」という人もいるでしょう。反対に、非常に早く多くのことを諦めて生きている人もいます。(中略)諦めていないと、人は頑張りますから。無駄なのに。経営者にとっては、多くの人がそう誤解して必死で働いてくれるのはありがたいことでしょう。しかし客観的に見れば、「周りより仕事がみたいだ、出世するのは無理かも」と思った人は、職場での評価にこだわるより早めに別の人生の楽しみ方を覚えたほうが楽しく生きられるはずです。(中略)仮に非常に早い段階で「自分にはなれない職業がある、手に入れられない生活がある」と理解したとしても、人生全部を諦めて絶望する必要は全くありません。むしろそれは早めに「進むべき道を現実的に選べる」ということを意味します。

(ちきりん『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』文庫ぎんが堂)

 

 

「諦めていないと、人は頑張る」というのが僕は特に印象に残っています。

諦める、逃げる、途中でやめるなどは一般的にいけないことだと言われていますが、一方でそれらが許容されることで緩和される苦しみがあります。

社会的に規定された幸せ、特に実現が困難なことを「夢」や「希望」と置き換えて頑張ることは美談のように見えますが、それらを叶えることができるのはごく一部ですし、叶えた人ですら幸せであるとは限らないのです。僕には身近に、高い社会的身分を手に入れた人がいますが、その人がその社会的身分としている時、幸せそうには見えませんでした。

本当に車が好きならば車を持てれば幸せでしょうし、一軒家が本当に必要なら持ち家を手に入れることは幸せに繋がります。その人がその仕事を本当に愛しているならば働くことに幸せを感じるでしょうが、そこに必ずしも社会的身分は関係しません。多くは社会的に規定された「幸せ」で、それを鵜呑みにしてしまった場合、他人が勝手に作った「幸せ」と、自分が本当に「幸せ」だと感じるものがずれているので、心から満たされることがありません。

 

「人生を降りる」という言葉を僕なりに言い換えると、

「社会的幸せから解放される」ということになります。

 

実現困難な幸福を諦めて、実現・持続可能でお手製でお手軽な幸せを叶え続けて行くことが大事なのだと思います。

 

 

「理想の生き方から逆算して考える」とは家入一真が『なめらかなお金がめぐる社会、あるいはなぜあなたが小さな経済圏で生きるべきなのかということ』(Discoverから出版)という本の中で述べた言葉です。

 

自分が幸せな生き方を考え抜いて、そのような生き方をするためには自分は何をして、どこにいて、誰といるべきなのかという生活を逆算するということです。

 

例えば、幸せな生き方が「海沿いの町でゆっくり釣りでもして1日を過ごしたい」というのであれば、海沿いの物価の低い田舎町に引っ越して、最低限の稼ぎだけを得てゆっくり生きていくという逆算ができます。

 

通常は順序が逆で、「仕事も私生活もとにかく頑張る、努力する」という生活の末に、「こんなものになれたらいいなあ」と理想を掲げます。

そうなると不確定な未来のために、無限に頑張る必要があります。なんと言っても不確定ですから、「ないに越したことはない」「石橋を叩いて渡る」「大は小を兼ねる」ということで無限の努力が要されるような気持ちになってしまいます。

それで幸せになるのはいつなのでしょうか。人生の大幅の時間を消費して、幸せになれるのは定年退職後になるのでしょうか。

 

大事なのは今で、そのために誰にも影響されないで「幸せな生き方」を自分で究明していくことが必要なのです。

 

今の所、僕は…ドゥマゲテか尾道で、優しい人たちとゆるいつながりを持ちながら、読書でもして、時々旅行をして生きていければ幸せかもしれません。以外とハードルは低そうです。

長い記事を読んでいただきありがとうございました。

 

 

(今回、記事を書くにあたって参考にした本は以下のものです。)

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