フィリピン生活のまとめ
2018年6月17日土曜日 19時05分、マニラ空港からインドネシアのバリ・デンパサール行きの飛行機が飛び立った。
それと同時に二ヶ月に渡るフィリピン生活に終止符が打たれた。
小学校4年生の時に家族でイタリアを旅行して以来の海外渡航、最初に抱いていた不安とは一切無関係の楽しい留学生活だった。
そんな留学生活を決定付けたのは、入国3週間後に敢行したセブ南部へのバイク一人旅だったことは間違いない。
初日に泊まったサンフェルナンドの宿でCrizと出会った。彼女は僕にドゥマゲテという土地を教えてくれた。
早々に旅の目的地を訪れてしまっていた僕にとって、セブ島を出て別の島に行くという提案は魅力的だった。
それから二ヶ月間、週末を利用して四度もドゥマゲテに通うこととなった。
二ヶ月の滞在期間、実質週末連休は7回だ。そのうち4回をドゥマゲテで過ごしたと言えばその過剰さはわかってもらえると思う。
ドゥマゲテでは二度、Crizの実家で家族同然に可愛がってもらった。日本での家族から離れた僕にとっては、本当の家族のような存在となった。
ドゥマゲテもCrizを含めた家族達も僕にとっては特別なものとなっていた。
フィリピンでの生活は、他にも多くの大切な気づきを僕に与えてくれた。
僕は食べ物が好きで、一人の時間が必要だということがはっきりとわかった。
日本にいた頃の僕は、自分が何が好きか、どのような環境を好むのかを把握できていなかった。
一方でこんな想いにも駆られる。
僕たち世代は物質的にとても恵まれた世代だ。だから根元的にお金を求めたり、出世を求めたり、するよりもやりがいを求める。
それは自分が何に対してやりがいを感じられるのか把握していない人間にとっては逆に息苦しい。
僕は日本にいる時から自分のやりがいとは何かを考え続けていた。でもわからなかった。
それが見つかった今でも、「やりがいを見つけなければならない」という強迫観念から無理に自分のやりがいを決めただけではないのかという疑念を抱く。
「嫌々の仕事は続かない。だから本当に好きなことを仕事にしなさい」という言葉は一見理にかなっているように思える。
だけれどそんなものは幻想ではないのだろうかと思うことは二度三度だけではない。
自分は「食」に関わることが好きだと自信を持って言える日もあれば、
そんなものは幻想に過ぎない、「やりがい信仰」に毒されているだけなんだ、と冷める日もある。
そんな断言できないものが、本当に自分の「好きなもの」となり得るのか。
一人の時間が好きだという気持ちだって同じだ。
このフィリピンでの滞在期間、かなりの量の読書をした。そのたび、立ち止まって一人でその内容を咀嚼したし、それらが自分の血肉となっていると感じるのは一人で黙考している時だけだ。
それでも他の学生が仲良くどこかへ遊びに行ったりすることに関心がないはずもない。自立とは依存先をたくさん持つことなのだ。
友達の一人もいないで、頼れる人の一人もいないで生きていけるはずがない。
本心から孤独に癒される心と相反して、人との関わりを求めている気持ちも少なからず持っていた。
そんな寂しさを知ってか知らずかCrizは事あるごとに連絡をくれ、その同僚達とも仲良くなった。
彼女達とはKTVに行ったり、食事に行ったり、ドゥマゲテまで行ったりと随分、連れ出してくれた。
もしかして僕の寂しさにCrizは気づいていたのではないかと推測してしまう。
それほどまでに世話になった彼女にはきちんと礼を言えなかった。
もちろん携帯電話で連絡は取れるし、言葉そのままの「礼」は言えるが、直接でなければ意味はない。
昨日、夕食を共にしたにも関わらず、帰りのジプニーに乗る直前に「Thank you for all」と言って握手をした切りになってしまった。
そのことについて後悔したのは、マニラからバリへと飛行機が飛び立った後だった。
いつも僕は別れ際を雑にしてしまう癖があった。恥ずかしいやら、また会えるだろうという気持ちやらできちんと言葉を尽くすことができない悪癖を持っていた。
そう言えば二ヶ月間、ある意味僕の喋り相手になってくれた語学学校の先生やグループクラスの生徒にもしっかりと挨拶はできなかった。
「そんな大げさな」と思われるだろうし、自分でも大好きなフィリピンから離れて感傷的になっていることはわかっているが、それにしても後悔は尽きない。
後に悔いると書いて後悔だから、後に後悔は付き物なのだろうけれど、できるだけこの類の後悔はしたくない。
しかしそんな後悔を差し引いても、やはりフィリピンに来て良かったと思う。
人や土地との出会い、自分への洞察の深まり、英語力の向上は端において置いたとしてもまだお釣りが貰えるぐらいだ。
最後の授業で僕は模擬面接を受けた。自分が「フードジャーナリスト」という設定での就職面接というものだった。
「この近辺でオススメのレストランは?」という質問をされた僕は、面接ということも忘れて自分のこれまで食べて来たフィリピンのローカルフードを紹介した。
少々喋り過ぎて鬱陶しいかな?という思いを持ちながらも、僕は喋るのを止めることができなかった。
自分の知識のひけらかしではなくて、素晴らしいフィリピンのローカルフードを伝えたいという思いだけだった。
その時僕は本当にローカルフードが好きなのだと確信を持つことができた。これまでにこれほど確信を持って好きと言えるものがあっただろうか。
熱中して来たものはいくつかあった。オンラインゲームではハマり過ぎて短期間不登校気味になった。和太鼓は高校から大学まで熱中していた。
ただ、不思議と素直に好きだということはなかった。思春期特有の意地だったのかもしれないが。
その授業の中で僕の収穫は二つあった。二つとも相手からするとふとした投げかけだったと思うのだが自分にとっては発見だった。
一つは「あなたが、食が好きだという原初体験はなんなの?」という質問だった。
僕はふとこう答えた。「母親が昔から料理に一工夫加えてくれたからだと思います。」
それはこれまであまり意識したことのないことだった。しかしこの時はすんなりとこう答えたのだ。
自分で答えた後から、それはそうかもしれないと自分で納得をしたものだった。
もう一つは、「そんなに食が好きなら自分でも料理できるようになれば?」という質問というか提案だった。
正直言ってその発想は今までなかった。市場に出向くのは好きだし、野菜や肉、魚、果物を眺めるのが好きだったけれど自分で調理しようという発想は不思議と湧いてこなかった。
だから「その発想があったか」と思った。自分にとっては魅力的な提案に感じた。
時として、新たな発見は他の人からもたらされる。孤独一本では生きていけないなと少し反省をした。
僕は海外生活を終えた時、どうなっているのか皆目検討が付かない。
周りの人たちはしっかりと見据えていて、学生に戻ったり、就活をし直したりというのが大半だ。
年の上下は関係なく多くの人たちが現実を見ていた。
僕はまだその現実から遠いところにいる。オーストラリア生活が終わったら世界一周なんかもいいな、なんて考えている。「お前はいつになればまともになるんだ」と怒られそうだと思いながら。
安い言葉を使えば「一度きりの人生を悔いなく過ごしたい」「いつ死ぬかわからないから今を最大限楽しみたい」では、最大限楽しんだ後のしわ寄せを受けるのは誰か。
安全地帯に入れば隣の芝は青く見えて、僕のような生活を送っている人たちが「羨ましい」という。
一方で僕は、安定して仕事に馴染んで、勤しんでいる人たちが「羨ましい」と思う。
どちらを選んでも結局、「羨ましい」という思いが消えないのなら海外にわざわざ来た意味があったのかという不毛な問答をしてしまう。
ウジウジとした気持ちは誰もが持ちながら一人で折り合いをつけている場合が多い。僕の場合は、その折り合いの付け方がわからないのだ。
しかしもしこの海外生活を終えて普通の社会人に戻ったとしてもこのフィリピンの生活は、人生の操になってくれるだろう。
それほどまでに彼の地での生活は豊かで幸せだった。許されることならばもう暫くの間、滞在したかったと思うが、終わりが見えているからこその良さとも言える。
結局のところ、人生において正解はわからない。
今は「やりがいがあればこそ」と言った考え方が蔓延しているし、
人生100年時代、70歳、75歳まで働かなければならない僕達にとって、「働き方」というのは一生こだわり続けなければならないライフワークだ。
嫌な仕事を無理やり70歳まで続けるのか?という言葉を根拠を持った恫喝のように聞こえる。
じゃあ好きなことで食べていけるのだろうか、という価値観は残念ながら僕達の頭にこびりついて、働き方を考える際の抵抗を生む。
今、歯を食いしばって働いている人が最後には笑うのかもしれないし、こうやって嫌なことから逃避し続けた人が人生を通して安定して幸せなのかもしれない。
そもそも「幸せを感じなければならない」という固定概念に縛られていることから発する現代病とも言えるかもしれない。
随分と回りくどく書いたが、こんなことは日本にいるときから考え続けて来た。
いまだに答えらしきものを考え出せていない自分にも辟易する。
同世代の友人が結婚するといつも思う。「お前は幸せを見出したのか」と。
僕の中で結婚するというのは、幸せの永久機関を見出した者飲みに許されることのように思えるからだ。
結婚すればきっと同じ場所で、できるだけ平坦に平均的な幸せを気づくことが理想的である。高すぎず低すぎずである。
そんな生活の中で、「俺は、私は、これさえあれば幸せだ」というものを見出した時に結婚に踏み出せるのではないかと思う。
パートナーや子供がいれば幸せだ、という理屈は僕にとっては詭弁である。関係が悪化した時にどうすれば幸せになれるのか。
だからこそ思う。「お前は幸せを見出したのか」と。
僕にとって「これさえあれば」というものは「食」であるような気がして、そうではない気もする。
食も含めたローカル感が好きなことは間違いがない。原初体験はいくつか思い当たる。
自分の好きなことを考える際に、その原初体験を追うことはとても大事なことだと思う。
なぜなら大人になればなるほど、「本当に好きなもの」と「好きだと勘違いしたもの」の区別が付きにくくなるからだ。
「ハンバーグが好きか」と問われて「好きだ」と答える人は多いだろう。しかしそれは少なからず「ハンバーグは美味しい」という外的な情報に左右されてのものではないか。
そう言ったものは沢山ある。倫理的に「好き」と言わざるを得ないものだってある。「子供やお年寄りは好きか」と問われて「嫌いだ」と感じることに少なからず罪悪感があるのは外的な情報から来るものだと思う。
話を戻すと、僕がローカル感が好きだという原初体験は、おそらく保育園から小学校の頃に培われた。
保育園の帰り道、近くの商店街でコロッケを買いに行くのが好きだった。小学校の時、小さな駄菓子屋に行くことが好きだった。
公園や空き地で落ちているガラクタを拾うのが好きだった。
とにかく「そこにしかないもの」を探すのが大好きだった。それが僕の原初体験であると思っている。
だから何かと不揃いなフィリピンの街は僕にとっては宝の宝庫だったのだ。それは時として感じる不便さを持ってしても余りあるものだった。
だから初めてフィリピンに来て夜景の美しい山の頂上にきた時、モアルボアルという美しい浜を見た時、バーやクラブに言った時、「どこも一緒じゃないか」と思ってしまった。
そのときから急激に、過度に整備された観光地や日本でも立ち寄れそうなバー、クラブには足が遠のいてしまった。その反面、過剰なまでにローカルな場所を求めるようになった。
その想いに多少なりとも偏見や僻みがあったことは素直に認められる。ただ自分の嗜好性を掴むのには十分な発見だった。
「これさえあれば」という思いは他者との競争から抜け出すことのできる唯一の要素だ。
他人と比較することで勝ち負けが生じる。でも本当に自分が好きなものならそもそもモチベーションなんてものは必要ないし、めけていても関係がない。それに24時間でも好き好んで続けることができるだろう。
自分にとってのそれは何か。狂おしいほどにやりたいことは何か。僕はそれを知りたいと思う。そもそもそんなものがあるのかは知らないが。
この記事の終わり方がわからず長々と書いてしまったが結局、終わり方はわからないのでここで終わりたいと思う。
もしここまで読んでくれた人がいるならとても嬉しく思う。なんせ自己満足でしかない雑記だから。
もし同じ悩みを持っている人や「これさえあれば」を見つけた人がいれば語りたいと願う。
同じ問題意識を持つ人と語れることは一つの幸せだと思うからだ。
僕は今、タイ旅行のことについてまとめている。タイも大概、不揃いで極端な国だったけれど面白い国だった。
整理された国よりも不揃いで極端な国の方が魅力があるのと同じで、人生もアベレージを行くのではなくて少しくらい極端で不揃いな方が魅力的かもしれないと何となく思う。