オーストラリア初日
フィリピンセブからケアンズの空港まで乗り継ぎ3回。
計25時間のロングフライトを終えて僕はケアンズに降り立った。
経由地のインドネシアでは、なぜか僕だけが持ち物検査を受けるという承服しがたい事態に遭遇したが何とかたどり着くことができた。
ケアンズ空港には留学エージェントが空港から学校までの送迎をしてくれているはずだが、予定時間より1時間遅れていたのでそれもどうなっているかわからない。
ケアンズ空港の印象としては、これまで訪れた空港職員と比べると随分とフレンドリーですこぶる良かった。これまでの空港では、向こうから笑顔で挨拶をされるなど考えられなかった。
入国手続きが無事に終わり、女性職員に「You can exit!」と言われて恐る恐る空港の待合ゾーンに出てみる。
そこには我が留学エージェントのシンボルが描かれたボードを持った無愛想な日本人男性が立っていた。
僕は疲れていたが、1時間待たせたいたこともありできるだけ愛想よく挨拶をすることに努めた。
男性は表情一つ変えず、「では行きましょう」と車まで僕を案内した。
寡黙な印象を受けたこの男性ーー名前を田中というーー、車中ではやたらと饒舌になった。どうやら僕にワーホリ学生への心構えを伝授したいようだった。
「みんな(日本人)、すぐ遊び呆けちゃうよ。目標持たなきゃ」
という意味合いのことをおそらく10回程度は繰り返した。10分ほどのドライブ中に。
僕は少々飽き飽きしながらも、これだけ繰り返し言うのだから本当のことなのだろうと、できるだけ襟を正して聞くように努めた。
学校に着いた時には、ただでさえロングフライトで疲れていた僕は田中さんの講話で更に疲れていた。彼の話は後半戦に入ってから如何に自分がオーストラリアで頑張ってきたかと言う命題に移っていた。
学校に着いてからはすでに始まっていた新入生テストに合流した。
と言ってもこれは日本を出発する前に留学エージェントに受けさせられたものと同じではないか。
そのテストの結果、低中級者コースに配属されたのでフィリピンでの英語学習の成果が如何程のものでもなかったと言うことが証明されたような気もするが。
結果として僕は15名の学生が在籍するクラス、それも一人の韓国人を除いて全員が日本人のクラスに配属されることとなった。どうやらレベル別だけでなく国籍によっても区別をされているようだ。
僕としてはフィリピンから日常会話に英語だけを喋る方針で来たので国籍は特に気にしなかったし、友達を作りに来ているわけでもなかったのでどうでも良かった。
学校が終わり次第、留学エージェントのケアンズオフィスに向かった。
僕の学校とオフィスは目と鼻の先にあるのだ。そこで幾許かの説明を受けたが約1日のフライトが災いして全く説明が頭に入らなかった。
そんな様子の僕にオフィスで説明をしてくれたお姉さんも流石に呆れ顔だった。
そのうちホームステイ先の母親、ジェセフィーナがオフィスに迎えに来てくれた。
僕とジョセフィーナの初対面はハグから始まったのだった。
小柄な体格のジョセフィーナは、その体躯に似合わず4WDのランドクルーザープラドを乗り回すパワー溢れる女性だ。
僕はホームステイに迎え入れてもらう前に、石鹸など最低限の消耗品を購入した。
その時、僕はフィリピンのドゥマゲテでジャンと交換した帽子を被っていたのだが、
それをみてジョセフィーナは嬉しそうに「フィリピンに行ってたの?」と尋ねて来た。
僕は二ヶ月間留学をしていたと返答すると、何とジョセフィーナはフィリピーナだったというのだ。
フィリピーナのジョセフィーナ。
フィリピンに別れを告げ、多少感傷的な気分に浸っていたのもつかの間、またしてもフィリピーナにお世話になることになったのだった。
家に着き、早速夕ご飯を食べた。
この日は手羽元の煮込みと白ご飯。そしてサラダだった。
シンプルなメニューだったが手羽元の煮込みは味が染み込んでいて美味しかった。
使い古された言葉を使うとすれば、おふくろの味といった感じだ。
この日は非常に疲れていたため7時には就寝することにした。
この家のもう一人の主人である父親はまだ仕事中で挨拶できておらず多少のためらいがあったが眠気には勝てなかった。