【書評】「笑い」には下心を含まれているということ
「笑い合うというのは、絶えずお前はオレの仲間なのかを確認し続ける行為なのだ。」
山内志朗さんの『過去と和解するための哲学』の中にある一文だ。この釘のように強い言葉は記憶の中に杭打つには十分な鋭さを持っていた。
他にも、
「笑いが精神の痙攣である」
「笑いとは失敗に対する社会的懲罰である」
「価値観を共有する集団への入会の意思確認」
中でも僕が以来捉われてならないのは以下の文章だ。
大笑いをする人は、権力を広い範囲に及ぶように発揮する人だ。大声である必要はないのに、大声で笑う。それは自分の勢力圏の大きさを示すことになる。
笑いを引き起こそうとする者は、心の中の起請文を顔に表せ、と命じているのだ。
恥ずかしながら僕にもそのような経験がある。声高に下らないことをのたまい、周囲を巻き込もうとする。
笑わない人がいれば顔には出さないものの妙な不安感を覚えたものである。それはまさに僕の勢力圏に参入しない者がいることへの不安感だったのだ。
この本のこれらの言葉が魚の骨が喉の奥に刺さったように引っかかり、以来僕は「笑う」ということに敏感になってしまった。
「笑う」ということが無条件に肯定される価値観がある。笑いは相手を安心させ、場の雰囲気を明るくし、自分の気持ちを楽しくしてくれる。笑いとはそういうものだと捉えられている。
では一方でこんな状況があった時、あなたはどう思うだろうか。
あなたは友人たちの中で「ちょっと面白いやつ」だと一目置かれる存在だ。いつものように友人たちと集まり冗談を言う。友人たちはそれに大いに笑っているが、新入りのA君だけ全く笑わない。別に無口な訳ではないが、あなたの冗談は通用しない。
きっとあなたはA君に苦手意識を持つはずだ。焦り、その焦りすらも見透かされているような感覚すらも覚えるかもしれない。
「笑い」とは政治的側面を持つ行為だ。「オレの冗談で笑わないやつはオレの仲間じゃない」と言わんばかりの縄張り作りだ。
上司のつまらないジョークに無理やり笑っている人はいないだろうか。その戦術は上司と仲良くなりたい場合、かなり正しい選択だ。
紹介したこの本、切り口がとても面白い。他にも紹介すると、
・親密性の圏域を拡大するのは友愛や共感といった優しい
感情によるのではなく、攻撃性を秘めた侵略だ。
・褒められたがる心は、相手の心を奪い取ろうとする心だ。
・理性的でないということが愚かだという見方は傲慢だ
ちなみに僕は辛い過去に囚われている時に、そのまんま「過去と和解したい」と思いパケ買いをした。そういう意味ではあまり効果がある本ではなかった、というのが正直な感想だ(笑)。だけど「笑い」に対する捉えやその他紹介した価値観はどれも面白く、作者の世界観に引き摺り込まれた。それまでの自分を思い出して恥ずかしくなって身震いがした。読書はこうでなくては、と思う。
本を読んで自分の行動の愚かさに気付く、という経験は一見、その後の行動範囲を狭めることのように見える。だけどそうではない。「あ、こんなことに消耗しなくていいんだ」と肩の荷が降りる。
芥川龍之介の『ひょっとこ』を読んで自分のピエロ的側面に気づき、村上春樹の『トニー滝谷」を読んで外側を過度に取り繕う虚しさに気づき、山内志朗の『過去と~』を読み無理笑いをせずともよくなった。そうやって少しずつ外側に着込んだ重い甲冑を外していけるのだと思う。