じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

ハングオーバー!

 昨日、大量に酒を飲んだおかげでこの日は完全にハングオーバー(二日酔い)だった。だからと言って部屋でだらだらとしているというのも落ち着かなかったので、街に繰り出すことにした。

 

 昼食に野菜と鶏肉のサンドウィッチと暖かいミルクティーをカバンに詰め込み、10時50分のバスに乗り込んだ。

 

 

 市内に到着すると、ウールワースでアイスコーヒーを買い海沿いに向かう。アイスコーヒーは1ドル50セント。最も安いものを選んで買ったのだけれど、これが美味しかった。ちょうど、日本でよく飲んだ白バラコーヒーに似ていた。

 

 

 正午前になるとすでに日差しが強い。ただべたつかない海風が日差しを中和してくれるのでここならば何時間でもいることができる。実際この日、11時30分から16時30分までの間、全く動かずに読書をしたり日記を書いたりしていた。

 

 

 

 この日読んでいたのは、佐藤優の『獄中記』という本だ。この作者の本を読んだのは『十五の夏』が初めてだ。これは作者が高校生の時に一人で東欧を旅したことについて書いた紀行文だ。東欧各国の描写が魅力的なことは去ることながら、食事についての描き方がかなり詳しい。僕としてはそっち方面の描写が読んでいて楽しかった。

 

 本を読む上で、作者の学生時代を知ることは僕にとって望ましい。初見で完成された作者の思想に触れるより、一層親しみを持って本に触れることができるからだ。ちょうど、社会人になってからできた友人よりも小学校からの友人の方がなぜか無条件に信頼できるようなものだと思う。これを先入観というのかもしれないが。

 

 

 

 そんなわけで『十五の夏』以来、興味を持っていた佐藤優の『獄中記』を読むことにしたのだ。高校時代、あれだけ聡明だった彼がなぜ獄中にいるのかという疑問は、より一層、この本に対する興味を掻き立てられた。

 

 

 

 

 そういえば獄中にいた佐藤優はその精神状態を読書と勉強で保ったという。そんな姿が僕に被ってしまう。別に読書をしなかったからと言って狂うことはないのだが。

 

 

 

 サンドウィッチを食べながらふと気付くと後ろの方ではジャズバンドがライブ演奏をしていた。そしてまたしてもライメンーー彼は先週のチーズタッカルビパーティで放尿した男であるーーが踊っていた。彼は毎週来ているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 『獄中記』は幸運にも良本のようでとても面白い。鈴木宗男との絡みで特捜部に逮捕された彼は、神学や哲学の考えに触れながら自分の身の置き方を考える。

 自分の身の不幸を嘆くのではなく、この逮捕劇が歴史的・国家的に見てどのような意味があるのかを見極めようとする。そんな姿勢が男として痺れる。

 

 彼の読書観も面白い。彼は当時40歳で、知性が働く期間するのは「残り持って30年」だと仮定する。熟読できる学術書を一ヶ月に10冊として、30年で残り3600冊。それに諸事を加えると読める本はもっと少なくなり、それに本当の意味で定着する知識はもっと少ない。だからこそ体系的に読書を進めることが大切だという。

 

 

 そこに僕が付け加えるとすれば、その限られた時間に面白くない本を切り捨てる勇気を持つべきだろうし、それは読書に限らず全てのことに当てはまる。無駄なことをする時間はないのだ。

 

 

 

 夕方になったので家に帰ることにした。帰りもアイスコーヒーを買おうかと迷ったが、これからの旅のために節約することにした。塵も積もれば山となる、だ。

 

 

 

 家に帰るとジョンとジョセフィーナはカジノに出かけていた。彼らの中の良さは格別なような気がしている。はたから見ている僕ですら、その幸せがいつまでも続くように願ってやまないほどだ。

 

 

 

 

 家に帰って夕食のパスタを食べ終わると少しだけ何も考えずテラスに座っていた。すると急に芥川龍之介の『羅生門』のことが頭に浮かんだ。教育実習の時に扱った作品だ。

 

 大きな災害が起こると僕はよくこの作品を思い出した。それは東日本大震災に起因する。僕がかの大災害に関する動画で最も印象に残っているのは、被災者が食料倉庫から食料を勝手に運び出している動画だ。倉庫の管理人は何もいえずそれを呆然と眺めている。そんな動画だった。これを生徒達とともに鑑賞して、その意味について考えたことがあった。

 

 

 『羅生門』は、その不気味な描写に意識を持っていかれがちだが、本当に大事なのは「善悪の基準」というテーマだ。大飢饉に襲われ、明日をも知れぬ毎日の中で死体の髪の毛からカツラを作り生計を立てることが良いことなの悪いことなのか。それは大災害の中で食料を盗み出す行為が良いのか悪いのか、という話に直結する。

 高校時代に誰もが習うこの作品だが、僕が習ったときはここまで迫る授業を受けた覚えはなかった。もし受けていたのならば覚えているはずだ。

 

 

 

 『羅生門』の主題について、Wikipediaには「生きるための悪という人間のエゴイズム」と書かれている。この記述上ではすでに老婆の行いは「悪」であると決めつけられているのだ。

 

 でも僕は善悪の基準なんてその時その時で変わるのだから、老婆の行いを断罪できるのは当事者性を持っている人だけだと思っている。周りが勝手に善悪を決めるのは越権行為だと思うのだ。極端な状況下にいる人たちの行為を、日常の視点で判断してはいけない。

 

 

 最近、日本は大雨の被害を受けた。考えたくはないがもしかすると貧窮した被災者が「日常の視点で見れば悪い」行為をするかもしれない。そしてそれをメディアやネットが騒ぎ立てるかもしれない。東日本大震災の動画がそうだったように。

 

 

 

 そういえば大学3、4回生の頃にゼミの指導教諭だった中川成美先生もよく「当事者性」という言葉を使っていた。肌感覚で理解できるのは今になってしまったが。

 

 

 そんなことを考えながら、昼間に受けた日差しによる日焼けに悩まされながらこの日は眠りについた。明日はあえて何もしない時間を余分に作ってみるつもりだ。最近は読書に明け暮れてあまり物事を考えることがなかった。緩慢な時間を過ごすことで何か閃くものがあるかもしれない。

 

 

 

 

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