じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

101117@El Camino de Santiago/小袋成彬

2017年10月11日朝の8時、スペインでは日が登り始めてきました。

 

今、Camino de Santiagoの道を歩いています。

フランスのSaint-Jean-Pied-de-PortからスペインのSantiago de Compostelaという街まで800キロ弱を徒歩で歩き通すという30日ちょっとかけて歩く旅です。

 

小袋君に会社を辞めた時の話をしてほしいと言われて、その話はこんな話だったんだけれど、会社のカード式の社員証?あれで日々会社のゲートをくぐりながら、

ある時、その同じカードで自動販売機のところにカードをピッとこう、かざしてコーヒーを買った時に、

 

「ああ、これはなんか物を消費している主体であるはずの自分が実は消費されていっているんじゃないか」と。

 

社会という構造の中で自分がその中に取り込まれてね。どんどん消し尽くされていってしまうと、そういうような気がして。

 

それで「ああこれはまずいな」と思って。

今、じゃあ本当に何をしなきゃいけないのかって考えたときに、やはり何か物を作らないといけないなと思った。

 

という話を会社をやめるときに小袋君にして、その自分が消費されていっているという、社会に消費されていっているという感覚がすごく小袋君に響いたらしくてその話をしています。

 

今は旅の6日目でLos Arcosという街に向かって歩いています。さっき看板があって残り5.7キロくらいかな。

 

世界は広いですね。

 

こうして歩いて、ただ道を歩いて、何もない道だけど今自分の道を歩いているという気がします。

 

101117@El Camino de Santiago/小袋成彬

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1月2日から今日の朝まで福岡の博多に友人と赴いていた。互いに怠惰なもので深夜まで酒を飲み動き出しは相変わらず夕方からだったけれどそんなペースが心地よく感じていた。

 

前々からその友人に薦められながら聞いていなかった小袋成彬の「分離派の夏」。最初に引用した「101117@El Camino de Santiago」を聞いてやはり何か綴らなければと思った次第で1ヶ月以上ぶりにブログを書いている。

 

価値基準をどこに置くのかという問題で、お金なのか人なのか自分なのかという問題で。そういうふうに振り返ることが自分ながらに青臭くもあるけれど自分に必要なことでもある。

 

この記事を書かない1ヶ月間、僕は毎日12時間以上PCに張り付いてライティングの仕事をしていた。ライティングは楽しいけれど自分の心はそこになく、自分が心から作りたいものでもない。どこかに違和感を持ち続けながらもその違和感を無視し続けてきた。

 

何がゴールなのかわからないから何かを頑張れるということがある。及第点を知るからこそ満足があって、要するに知足ということなんだけど、頑張るということが絶対的な正解として作られてきた考え方が知足をなかなか許さず、自分を許せないところがある。

 

今、以前教師として勤めていた舞鶴にいる。同市の祖父母宅を訪れるためだ。情けない話で電車が近づくたびに手の震えを感じていた。それだけ自分にとってこの街と教師時代の過去は忘れたつもりで心に残るものなのだと改めて思う。

 

教師時代より今の方が生き生きと生きることができている。しかし未だに商業記事のライティングというものに消費されている感覚がある。そんな感覚を持って「101117@El Camino de Santiago」を聞いた時に、博多に一緒に行った友人に「これは森島君だろ」と言われた時に、これは僕だと思った。何かを書き続けるべきなんだと思った。

 

もう1つ心に響く小袋成彬の曲は「Lonely One feat.宇多田ヒカル」。この曲の中に「これは誰でもそうなのか」という言葉がある。

 

この感覚を僕は持ち続けてきた。仕事が辛い時も、何か自分なりの答えを出した時も、表面的なやり取りをしている時にも「これは誰でもそうなのか」と思い続けてきた。

 

自分の悩みなんて他愛ないことで、些細なことで、誰でも感じていることなのかと。そう感じてしまうと途端に自分が書いた言葉がとても稚拙に感じ、その言葉を生み出した自分自身の小ささを感じてしまう。消費されているということを受容しつつ耐えられる人ばかりで、耐えられない自分は弱かったのかと。

 

みんなはどんなことを考えて生きているのだろうか。どこまでの辛さに耐えられるのだろうか。何を楽しみにしているのだろうか。何を得れば満足して生きられるのだろうか。

 

何食わぬ顔をして生きている人達が同じ事象が起こった時に僕と同じように感じるのだろうかと。自分は大げさすぎるのだろうかと。

 

「これは誰でもそうなのか」と思った瞬間、何かを書こう、作ろうという気力は失ってしまう。それでも書かなければならないと久しぶりにこの記事を書いた。

 

 

ついでにこの年末年始に帰国した時に考えていたことも記しておこうと思う。

 

人は使命感を得た時に変わることがある。これをするべき、こうあるべき、そんな使命感だ。特に被害者的意識を持った時にそれが使命感に繋がり、目覚めやすい。だけど使命感が自分のために結びつかないこともある。使命感を得て何かを表現した時にその全てを社会にではなくて自分に向けていたい。

 

変わらないで欲しいと思う人こそ、その変化を敏感に察するから変わった時に勝手に失望してしまうことがある。しかし他人が変わらないでほしいと思うことの傲慢さはよく分かっているからそんなことは言わない。

 

自分の変化なのか相手の変化なのか、久々に会ってみると噛み合わない人もたくさんいる。深い付き合いがあればあるほど昔のような関わりを期待してしまうからこそ、失望も大きい。個人にも人間関係にも新陳代謝が必要なのだ。

 

今、必要な人間というものは必ずあってそれはその時々で違うのだと、いつまでも同じ熱量では関わることができないのだと思う。

 

人にも物にも執着するからこそ勝手に失望をしてしまう。失望の原点は執着にある。自分があってほしい理想像を勝手に見立てて、そのイメージからズレただけで不満を持ってしまう気持ちは傲慢だ。

 

必要な時に必要な人は現れるし、時が経ってズレを感じても更に時が経てばどこかで会えるかもしれない。そう思って執着はしないことに決めた。