【パース233日目】鈍感であることの価値について【味蕾はないけど未来がある】
どうも、森島です。
僕が多くの人から言われるのが味覚音痴だということ。
ありがたいことにほとんど何を食べても美味しく感じるし、
そのおかげで食べることに関してはかなり好きです。
それに味を感じる方向性もハチャメチャ。
周囲が「味が薄い」と感じたビールが僕には濃く感じてしまったのだ。
実際に舌を見ると味蕾がない。
でも、味蕾がなければ何でも美味しくハッピーに。
僕は味蕾はないけど、未来があるのだという下らない掛け言葉で今日のブログを書き出します。
検証はしない
僕はかなり鈍感だ。
というよりも、何事においても検証の機会を持たないといった方が正しいのかもしれない。
昔からゲームの説明書は読まないし、
テストは問題を5割くらい読んだところで、物知り顔に解答し始める。
もちろんそれで上手くいくわけはないのだけれど、
検証することのめんどくささに比べれば後に来ることとなる失敗の方がマシだと感じているのでしょう。
本当に失敗したら危うい物事以外は見切り発車でやってしまうのです。
見たくないものを見ないということ
何でも検証なしで骨髄反射で反応してしまうため、
目の前で起こっていることが何なのかがよく分かっていないことも多いのです。
そのおかげで虫の多い我が家でもシェアメイトが怖がっている中、
僕1人は気づかないということも多々あります。
それはまさに鈍感力。
何でも二字に「力(りょく)」を語尾につければそれっぽくなってしまうということはさておき、僕は自分の鈍感さを思いの外気に入っているのです。
味に鈍感だから、何でも美味しく感じることができる
視覚に鈍感だから、些事は気にしないでいられる
聴覚に鈍感だから、ヒソヒソ話を気にしないでいられる
色々なメリットがあって良かったな、と感じる毎日。
以前は繊細で細かいことに敏感な友人を羨ましく感じることもありましたが、
今の僕には繊細で細かいことに敏感であることは面倒に感じられてならないですね。
「気にしすぎ」と「繊細」は違う
とは言っても以前の僕は一丁前に自分のことを「繊細な男」だと思っていました。
何かにつけて不安になったり、ネガティブになったり。
今もそういうことはあるんですが、これはただの気にしすぎだということに気がつきました。
繊細な人は目の前の事象に対する心の這わせ方がとても機敏な人
気にしすぎな人は目の前の事象をきっかけとする想像でネガティブになる人
僕はどちらかといえば後者ですね。
どちらもストレスフリーであることに間違いはないですが、
後者のストレスは浪費に近いですよね。
これからも鈍感であることを誇りつつ無駄な心の消耗を避けていきます。