じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

仕事をアイデンティティにしない(神谷美恵子『生きがいについて』)

神谷美恵子『生きがいについて』から抜粋。(長いから太字だけでも読んで)

 

 

 神谷美恵子『生きがいについて』

生きがいをうしなったひとは 、自己との関係もそれまでとは変ってくる。

 

ふつう家庭や社会の中で 「りっぱに 」生きているとき 、大ていのひとは自分の値打とか 、自分の存在の必要性とかについて 、なんとはなしに自信を持って暮している 。

 

そういうひとの行動の大部分は 、他人から期待されている役割を果たすだけのものであり 、その社会的役割がそのひとの自我のほとんど全部を占めていることが多い 。

 

 

しかし 、たとえばもしこういうひとたちがひとたびらい(注:らい病)にかかって 、ひそかに名前を変え 、行方をくらまして療養所にはいったとしたらどういうことになるであろうか 。

 

入園者は以前の生活で支えとなっていたものをみなはぎとられ 、裸の自己に対面することになる 。

 

 

これは少し極端な例かも知れない 。しかし 、何かのことで生きがいをみうしなうような状況にあるひとは 、大ていの場合 、孤独のなかで 「自己そのもの 」と相対することを余儀なくされると思われる 。

 

しかもその自己とは 、生存目標をうしない 、統一原理をうしなった存在であったから 、これほど無力でみじめなものはない 。

 

 

自己に対するこの深刻な嫌悪の泥沼から 、どうやってひとは這いあがるのであろうか 。

 

自己へのにくしみのあまり自殺してしまうひともある 。

 

酒や麻薬や享楽に耽溺するひともある 。

 

どうせこんなものさ 、となれあいの形で 、すべてを浅くごまかして暮して行くひともある 。

 

発見した自己をそっとかくし 、再び仮面をつけて生きて行くひともある。

 

きびしく自己をみきわめ 、あるがままの自己をなんの自己弁解もなく 、うけ入れるほかなくなるひともある 。

 

いずれにしても 、ここでひとが自己に対してどのような態度をとるかにより 、その後の生きかたに大きなひらきが生ずることであろう。

 

                   神谷美恵子『生きがいについて』から引用

 

 

仕事をアイデンティティにしない 

 要は「仕事を辞めた時に自分に残るアイデンティティがあるのかどうか」ということで、これを拗らせ始めると一夜だけでは終わらない。

 

自分以外の何かに自分の価値を任せてしまうことによって、自分の価値が第三者から簡単に変えられてしまうことになる。

 

 

褒めてはいけない・褒められてはいけない

教育現場では自尊感情を高めるためには褒めることが大事だと言われているけれど僕はそうは思わない。

 

褒められる →    頑張る

 

という構図は簡単に

 

褒められない → 頑張らない

 

に変わってしまうからだ。

 

頑張ろうと思うモチベーションは「自分がやりたいからやる」というところから湧き出るべきであり、

 

三者の評価をそこに加え始めると、

 

純粋な「自分がやりたいからやる」という気持ちから

「他人に褒められたいから・怒られたくないからやる」という気持ちに変わってしまう。

 

「他人に褒められたいから・怒られたくないからやる」という気持ちで仕事をしていると、(評価者としての)会社を辞める選択肢がなかなか生まれづらいのでは。

 

 

純粋にやりたいことをやることにする

そんなことを考える最近。

報酬の見合わないライティング依頼に断れない時に3つの傾向があった。

 

  1. クライアントが高く評価してくれる
  2. 自分が面白いからやっている
  3. 単純に報酬が高い

 

どれも原稿を書く時のモチベーションを与える要因であることに変わりはないが、やはり継続することができるのは「自分が面白いからやっている」という依頼だけ。

 

それでも無理に依頼を続けて起こるのは原稿の品質低下であり、

それは結果的に誰のメリットにもなっていない。

 

 

嫌な仕事を無理にやることは誰のためにもなっていない

されども生きるためには仕方なく嫌な仕事、しんどい仕事でも続けている人がいる。

大企業に勤めることができたからそれを手放せない人もいる。

 

それでも思うのは嫌な仕事を無理にやることは誰のためにもなっていないということ。

 

自分の代わりはいくらでもいるし、楽しんでその仕事ができる人にその枠を与えるべきなんだと僕は考える。

 

 

世の中が真暗になり、すべての人生計画が破壊されてしまった。

これは「らい病」の患者が、その病気を宣告された時に感じた気持ち。

 

『生きがいについて』を読んでいると、いつもならあまり目に入らなさそうな箇所が、今日はなぜか目に入った。

 

急に、数年先、数ヶ月先、数週間先に目を向けて生きていることの空しさを覚えて、とりあえず美味いものでも食べにいこうと思った。(了)

 

 

仕事をアイデンティティにしない(神谷美恵子『生きがいについて』)

神谷美恵子『生きがいについて』から抜粋。(長いから太字だけでも読んで)

 

 

 神谷美恵子『生きがいについて』

生きがいをうしなったひとは 、自己との関係もそれまでとは変ってくる。

 

ふつう家庭や社会の中で 「りっぱに 」生きているとき 、大ていのひとは自分の値打とか 、自分の存在の必要性とかについて 、なんとはなしに自信を持って暮している 。

 

そういうひとの行動の大部分は 、他人から期待されている役割を果たすだけのものであり 、その社会的役割がそのひとの自我のほとんど全部を占めていることが多い 。

 

 

しかし 、たとえばもしこういうひとたちがひとたびらい(注:らい病)にかかって 、ひそかに名前を変え 、行方をくらまして療養所にはいったとしたらどういうことになるであろうか 。

 

入園者は以前の生活で支えとなっていたものをみなはぎとられ 、裸の自己に対面することになる 。

 

 

これは少し極端な例かも知れない 。しかし 、何かのことで生きがいをみうしなうような状況にあるひとは 、大ていの場合 、孤独のなかで 「自己そのもの 」と相対することを余儀なくされると思われる 。

 

しかもその自己とは 、生存目標をうしない 、統一原理をうしなった存在であったから 、これほど無力でみじめなものはない 。

 

 

自己に対するこの深刻な嫌悪の泥沼から 、どうやってひとは這いあがるのであろうか 。

 

自己へのにくしみのあまり自殺してしまうひともある 。

 

酒や麻薬や享楽に耽溺するひともある 。

 

どうせこんなものさ 、となれあいの形で 、すべてを浅くごまかして暮して行くひともある 。

 

発見した自己をそっとかくし 、再び仮面をつけて生きて行くひともある。

 

きびしく自己をみきわめ 、あるがままの自己をなんの自己弁解もなく 、うけ入れるほかなくなるひともある 。

 

いずれにしても 、ここでひとが自己に対してどのような態度をとるかにより 、その後の生きかたに大きなひらきが生ずることであろう。

 

                   神谷美恵子『生きがいについて』から引用

 

 

仕事をアイデンティティにしない 

 要は「仕事を辞めた時に自分に残るアイデンティティがあるのかどうか」ということで、これを拗らせ始めると一夜だけでは終わらない。

 

自分以外の何かに自分の価値を任せてしまうことによって、自分の価値が第三者から簡単に変えられてしまうことになる。

 

 

褒めてはいけない・褒められてはいけない

教育現場では自尊感情を高めるためには褒めることが大事だと言われているけれど僕はそうは思わない。

 

褒められる →    頑張る

 

という構図は簡単に

 

褒められない → 頑張らない

 

に変わってしまうからだ。

 

頑張ろうと思うモチベーションは「自分がやりたいからやる」というところから湧き出るべきであり、

 

三者の評価をそこに加え始めると、

 

純粋な「自分がやりたいからやる」という気持ちから

「他人に褒められたいから・怒られたくないからやる」という気持ちに変わってしまう。

 

「他人に褒められたいから・怒られたくないからやる」という気持ちで仕事をしていると、(評価者としての)会社を辞める選択肢がなかなか生まれづらいのでは。

 

 

純粋にやりたいことをやることにする

そんなことを考える最近。

報酬の見合わないライティング依頼に断れない時に3つの傾向があった。

 

  1. クライアントが高く評価してくれる
  2. 自分が面白いからやっている
  3. 単純に報酬が高い

 

どれも原稿を書く時のモチベーションを与える要因であることに変わりはないが、やはり継続することができるのは「自分が面白いからやっている」という依頼だけ。

 

それでも無理に依頼を続けて起こるのは原稿の品質低下であり、

それは結果的に誰のメリットにもなっていない。

 

 

嫌な仕事を無理にやることは誰のためにもなっていない

されども生きるためには仕方なく嫌な仕事、しんどい仕事でも続けている人がいる。

大企業に勤めることができたからそれを手放せない人もいる。

 

それでも思うのは嫌な仕事を無理にやることは誰のためにもなっていないということ。

 

自分の代わりはいくらでもいるし、楽しんでその仕事ができる人にその枠を与えるべきなんだと僕は考える。

 

 

世の中が真暗になり、すべての人生計画が破壊されてしまった。

これは「らい病」の患者が、その病気を宣告された時に感じた気持ち。

 

『生きがいについて』を読んでいると、いつもならあまり目に入らなさそうな箇所が、今日はなぜか目に入った。

 

急に、数年先、数ヶ月先、数週間先に目を向けて生きていることの空しさを覚えて、とりあえず美味いものでも食べにいこうと思った。(了)

 

 

認められるように頑張るよりも認めてくれる人と付き合う方がいい

今月ついにライティングの給料が教師時代の給料を超えた。

それも無理せず、楽しく、のんびりと働いて。

 

 

 

ライティングの時に極力

  • 得意なテーマ
  • 自分が楽しい内容
  • 社会的に有益そうな案件

にこだわっていた。(3点目はそうでもない時もあったけれど)

 

すると働くことが楽しくなった。

毎日、6時半には目が覚めるようになった。

 

仕事が楽しいということは朝自然に目が覚めることなのかもしれない。

楽しく働けない仕事には全力は出せないし、自分にとっても相手にとってもあまりいいことない。 

 

だからこそ気持ちよく働けない依頼は断る

今日、8月末から継続的に依頼を貰っていたクライアントとの契約を断った。

色々な理由はあるのだけれど、何よりもただ折り合いが悪いということが一番だった。

 

断る時には率直に

「もう一緒に仕事がしたくないです。そう思ってしまったのであれば、一緒に仕事をすることはできません。」

と伝えた。

 

「まだまだライターの技術は完璧には程遠い」

「こっちも意味不明なことを言う馬鹿に使う時間はないんで。」

と言われて共用チャットルームから追い出されて終わった。

 

 

僕は不思議だった。

 

同じ報酬・テーマでも、

僕が書いた原稿で喜んでくれる依頼主もいれば

「完璧とは程遠い」と感じる依頼主もいる。

 

認められるように頑張るよりも認めてくれる人と付き合う方がいい

仕事でも友人関係でも何でもそうだけれど、

もう認められるために頑張ることはしようと思わない。

 

実家や祖父母宅では何もしなくてもただ居るだけで喜んでくれる。

ただ居るだけで喜んでくれる人と一緒にいることに精を出す方がよほど良いのでは。

 

 本当のブラック企業は飴と鞭が上手な管理職がいるらしい。

上手に貶して、上手に褒めるから部下は精神的に自立できない。

辞職の踏ん切りがつくほど酷い職場ならばブラックな環境は成り立たない。

「認められたい」という気持ちを逆手に取り、叱りと褒めを上手に使う。

そんな環境からは身を置こう。

 

どんな仕事でも自分の知識や技術に喜んでくれる人と一緒に仕事をすることがいい。

もしくは自分が朝、自然に目が覚めるほど楽しい仕事をすることがいい。

もしくは頑張らなくても認めてくれる人がいることがいい。

 

【パース70日目】このブログは音声入力で入力しています。

※ このブログは音声入力で入力しています。誤字脱字あしからず。

 

僕は今日新たにライティングの可能性を垣間見た。

 

それは音声入力でライティングを進めていくということだ。

 

これまで音声入力というのは非常に効率が悪いもの、もしくは振りが起きそうなものだと私は考えていた。

 

しかしこのブログを読んでいただければ分かる通り、非常に精密にライティングすることができる。

 

今日僕は朝から25,000字にも渡る原稿を音声入力のみで書ききった。

 

いつもであれば 25,000字もの原稿書くとその日一日は疲れてあまりそれ以上ライティングしようと思わない。

 

しかし実質音声入力で疲れるのは口だけででは全く疲れるない。(音声入力中に言葉を噛むとこのように5時が起きる。)

 

つまり何が言いたいかと言うと僕はこれまで1日中ライティングやりたかったと言う気持ちはあったのだが体力的に非常にしんどいところがあって続けることができなかった。

 

しかし実質口と手では全く動きが違うため僕の脳がライティングのことを考えて焼きってしまうまではその日1日中ライティングを続けることができるということだ。

 

 

そんなわけで今日は 25,000字の原稿書ききったあと、小休止を挟み3000字を一本、1000字を1本書くことができた。

 

このブログも音声入力で書いているので実質、+ブログを書いたことになる。

 

 

音声入力ありがたや。

 

これだけでは若干内容が物足りないので最近食べた美味しいものの写真を紹介して今日は終わります。

 

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【パース68日目】好きな仕事してるかどうかはお金の使い方で分かる

好きな仕事をしてたらそれだけで満足なので大してお金を使わなくなった、そんなここ最近。

 

 

好きな仕事

 

教師をやっている頃は

この漫画のような気持ちで働いていて、でもそれが働くってことなんだと思っていた。

 

 

だからこそ金土日にはお金を浪費しまくっていたのだけれど、実際、それで救われた夜はあまりなかったように思う。

 

自分で浪費家だな〜なんて思っていた頃から比べると、今は服も欲しくないし、別に大金を使わないと誤魔化せないストレスもない。

 

朝7時前には自然と目が覚めて夜10時までひたすらライティングをしているのだけれどそんな毎日に充実感を覚えている。

これが好きな仕事してるって感覚なのかなと疑問から確信に変わりつつある。

 

問題点はただただ体力が落ちまくっているということぐらいで、数時間外を出歩くとその日はしばらくライティングもできないぐらいには疲れてしまう。そんな日々。

 

 

いつの間にかユキノとケアンズを出て3ヶ月目

なんだかいつの間にやらケアンズを旅立って3ヶ月が立っているらしい。

 

色々とあったけれど行き着くところには行き着くもので、今はシェアハウスのマネージャーとして不労所得を得る立場になってしまっている。

 

ますます引きこもりが捗り、そしてお掃除おじさん化してしまっているのだが。

 

 

【パース52日目】シャワー浴びるときぐらいは誰かのこと考えてもいんじゃないかな

と、今日シャワーを浴びているときにふと思った次第。

 

自分と関わりのある人のことについて、

主に良いことを中心に思いをはせる瞬間があってもいいんじゃないかと思う。

 

 

今日僕は誰とは言わないけれど昔から関わりのある人のことを考えた。

何してんだろうなあ、あの人って思ったり

今頃頑張ってんだろうなあと思ったり。

 

そういうことを考えるとなぜか心が穏やかになる。

 

 

朝から晩までライティングをしているものだから、

つい考えることはそのことばかり。

 

好きなこと漬けで幸せではあるのだけれど、

ふと人間味が足りていない気持ちにならなくもない。

 

 

この間、ライティングの後に酒を飲んでいるとユキノが隣に座ってきてこういった。

 

「ごめんね、ヒラの至福の時間を邪魔して」と。

 

そんなふうに見えているのかと思う節はあったが、

確かにライティングをして集中力を根こそぎ消耗させた後の晩酌は至福のひと時だ。

 

 

 

でもたまには誰かのことを考える時間を作ってもいいんじゃないかな、と思う。

 

別に誰かの幸せで自分が幸せになるような善人ではないけれど、

懐古好きな僕は昔からの知り合いとか友人とかそんな人のことを思い浮かべるとなんとも言えない感情になる。(いい意味で)

 

 

【パース50日目】財布、見つかる。 aka Photoshopヤバイ

目が醒めると警察からメールが届いていた。これだ。

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ケアンズで失われた財布が戻って来た。全く期待していなかったのに。

残留物は運転免許、すでに停止したクレジットカード3枚。

現金が抜かれているだけなので良かった。

 

運転免許と、大事に大事に日焼けさせた皮の財布が戻ってくるだけでありがたい。

 

そして見つかった場所は、財布を失った宿だったとのこと。

財布を奪って宿の何処かにポイ捨てするぐらいならわかるところに現金だけ抜いて置いといてほしい。

 

まあ、何はともあれそんな吉報をもらったことでウキウキと10日ぶりぐらいのブログを書いている。

 

 

最近の僕はとにかくライティングにご執心だ。

前にもましてご執心で一日中とにかくライティングをしている。

 

ライティングをするか、コールスに行くか、美味しいものを食べにユキと出かけるか、

この50日間はそれに限る。

 

 

 

そんなユキが明日から働き始める。本当に喜ばしいことだ。

 

ダーウィンから職探しに苦労していた彼女を近くで見て来ただけに、頑張っていた姿を見て来ただけに、とりあえず僕も「良かった」と思うばかりだ。

 

そんなこんなでこれからユキの生活スタイルも変わるということで、

僕は無理を言って食事などを別々にすることにしてもらった。

 

ケアンズ以来、車中泊でも家での自炊でも一緒にしてきただけに少し寂しい気持ちもあるが、多分、一番、これが生活しやすい方法だと思い、この選択をした。

 

 

ダーウィンからはずっとコンロを使った料理が多かったけれど、

実は一番思い出に残っているのはケアンズダーウィン間の車中での貧しい食事だ。

 

ひどい時はコーンフレークに少し悪くなった豆乳を入れて食べた。一つの果物を分けて食べたりもした。

 

彼女にとってはどうかわからないけれど、僕にとってはいい思い出だ。

 

 

 

 

 

最近の日課、というよりは週課になっているのは美味しいものを食べに行くことだ。

 

本当に僕は美味しい食べ物が好きだ。というか食べ物が好きだ。

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この辺りはパースに来てから食べたやつ。一つだけ自炊のものが混じっている。

 

そして昨日、フォトショ(Photoshop)の威力を知る。

 

ちょっとある事情でどうしても車のロゴを消さなきゃならなくなった昨日、

初めて写真のレタッチに挑む。

 

そこですんなりロゴを消すことができた僕は写真のレタッチにハマり、ハンバーガーのバンズのゴマを消したり、パティを2倍にしたりして遊ぶ。

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