じゃそれで(Up to you)

オーストラリアで旅をしながらお仕事をする生き方を実践しています。

僕の人生のコンプレックスを詳細に書きました

今日はスラムに行く予定だったのですが

あいにくの雨で中止しました

 

最後の授業で、Mia先生からこんな話がありました。まとめると

他生徒から

・HIRAがENGLISH ONLY POLICYをしているのはなんで?

・他の日本人は日本語で喋っているのに君だけ英語で返してたら嫌われないの?

という質問を受けたけれど、実際どうなの?

 

僕はこう返しました

このフィリピン留学でやりたいことは2つで

1 英会話力を上げたい

2 フィリピンのローカルを知りたい

ということだけなので、英語だけで生活するのは当たり前だし、日本人の友達ができなくってもいい。(外国の友達は切実に欲しい)嫌われたって構わない。

 

ただこの説明を英語で返すのが危うかったので、一応下に英作文してみました。(英語得意な人でもしこの記事を見ていたらアドバイスください)

 

I have two purpose. First I want to improve English skill. Second I want to know about   local of Philippine.

So it is natural that I only speak English and I am unconscious that if i cannot make friends. Even if another person disliked me, I don't worry about it.

どうでしょうか?

 

 

一方で、今週に入ってから好奇心が緩やかになってきていることも自分でわかっていました。自分のやりたいこと二つが本当にやりたいことなのかな?と気持ちがブレかかっていました。

こういう時に素直に別のことに変えるか継続するかの選択肢しかないのですが、見極めが大事で、自分にとって続けることが良いのか別の目的を設定するのがいいのかを考えにチャーチに行くことにしました。

なぜこの時チャーチが浮かんだのかというと、この間シンガポールのモスクに訪れた時に、僕が信徒の方とこんな会話をしたからです。

 

僕「みんなはどんなことを祈っているのですか?」

信「みんな正しい道に導いてもらえることを祈っています」

 

正確にはこういう風には言いませんでしたが、コーランを見せてくれてそう解釈することができました。

僕は宗教に関して全くの無知ですが、祈る人々も神様に丸投げな意味での「神頼み」ではなく、自分の気持ちの整理のために使っているのかな?と解釈しました。

 

自分の気持ちや信念がブレそうな時に教会やモスクに訪れて気持ちを整理し、

再度自分の意思を確認する時間が自分にも必要かと思ったのです。

(別に場所はどこでもよかったのですが近い場所にあるのでどうせならということで行きました)

 

 

教会に着くと、椅子の下に膝がつけるようにクッションが着いていました

僕は膝をついて、とりあえず拝む姿勢で考えに耽ることにしました

 

 

なぜフィリピンにいるのかを問うているうちに自分の生まれのことから考える必要があるように思いました

 

 

 僕は4人家族で、父、母、2歳上の兄、そして僕。幼い時からみんなに愛されて生きてきたと想う。それぞれ愛情の形は違ったと思うが大事にされてきた。

 父は仕事が忙しく僕が成長するのと比例して距離が開いてきたことには自覚がある。毎日12時前に帰ってくる父。「ただいま」の声が聞こえるとなぜか寝たふりをしたり、気付かないふりをしていた。それでも父は僕に対して愛情を持ち続けてくれた。どう接したらいいかわからない僕と、同じく不器用で雑談をしたり一緒に出かけたりすることができなかった父はギクシャクした関係だったけれど今では一緒にご飯に行って将来について話すような関係になった。

 兄はとても真面目で繊細な人で、成人してからはいつも何かに悩んでいたりする姿が印象に残っている。でも保育園の頃はガキ大将から僕を守ってくれたり、小学校に入って遊ぶ友達がそんなにいなかった僕を兄の友人の輪に入れてくれた。そのお陰で寂しい思いをすることはなかった。兄とは根本的な価値観が違うが、いつも大切なことに気づくのは兄で、見切り発車で後から後悔するのは僕だった。何でも割り切れない態度の兄をみるともどかしさを感じるけれど、きっと僕が気づかない大切なことに気づいているのかもしれないと思う。

 母との関係をここにしっかりと書いておきたい。おそらく家族の中で最も愛情を注いでくれたのは母だったからだ。母は教師で帰りが遅く、幼い頃は僕は寂しい思いをしていたのだと思う。思う、というのは兄がいたお陰でその瞬間としてはあまり感じていなかったような気がするのだ。しかし母が子供の僕に「寂しい思いをさせてごめん」とふと言った時、涙が出たのを覚えている。母は帰りが遅かったが、愛情を注いでくれた。仕事帰りに外食によく連れて行ってくれた。一緒に裁縫をした。喧嘩もしたし、怪我をしたときは病院に連れて行ってくれた。教師は休日でも学校に行くからその時は僕も連れて行ってもらって兄と一緒に理科室でジムキャリーの映画「マスク」を見ながら出前のカツ丼を食べた。ふとした思い出がたくさん溢れてくる。母も不器用な人間だけれど、兄と似ていて僕が気づかない大事なことをいつも考えていた。

 

大学生までの歩み

 僕はとにかく大学生卒業まで「教師になる」という目標を持って一直線で生きた。保育園から教師になると思っていた。それは教師である母と、教師になると言っていた兄の影響だった。僕には確固とした自分がなかった。

・小学校時代

 それこそ二年生くらいまでは兄の友人達の輪に入りよく遊んでいた。けれどどこかしらのタイミングで仲の良い友人が僕にもできた。クマ、大槻、酒井くん、カネ、まだ何人かいたけれどよく遊んでいたのは彼らだった。僕達は音楽と漫画とゲームが好きで、毎日のようにクマの家に入り浸り遊びまくった。クマは自分が好きなことを見つけるのが得意な少年で、また、それが僕らにとっても魅力的なものだった。特に僕はクマに心酔しきっていて、彼の好きなものが僕の好きなものだった。僕らは21世紀の小学生だったが、主に聞く音楽や読む漫画は90年代のものが多かった。それもクマの好みだった。「L↔︎R]や「WANDS」「Mr,Children」などをよく聴き漁った。漫画は「ろくでなしブルース」「奇面組」「ジョジョ」などをよく読んだ。僕らのグループはクマと僕がリーダー的に目立っていたけれど、クマが何かはじめ、僕がそれを盛り上げる係だった。盛り上げるのは得意だったし、何しろ自分で考えなくてよく楽だったのかもしれない。自分の頭で自分の好きなものやことを感じることがこの頃からできなくなっていった。

・中学校時代

 中学校では剣道部に入った。力自慢だった僕は柔道部に入りたかったけど、僕らが入学した年に廃部になってしまっていた。そこで見切り発車。「○道部」つながりで剣道部に入ったのだ。練習は厳しく、熱く、そして臭い。僕は二年生に上がってすぐやめてしまった。そこからはまたクマの家に入り浸り、小学校時代と同じように遊びふけった。実は小学校時代から「信長の野望オンライン」というオンラインゲームを始めていたけれど、部活動をやめて暇になった僕は本格的にオンラインゲームにはまっていった。体重は増え、マックス108Kg。当然、クマたちのグループ以外に仲の良い友人は少なく、一方でオンラインゲームでは仲のいい、気前のいい大人たちが相手をしてくれた。自然と現実世界よりも仮想世界に夢中になった。中学校二年生の時には、体育のマラソンの時期がきっかけで短い不登校に陥った。暗い気持ちはなく、好きなことを好きなだけできる時間が楽しかった。ただ周りの大人たちは心配してくれていた。僕が中学校二年生の頃、兄は高校一年生だった。兄は自分の好きなことを探すのが得意で、全国でも競合の和太鼓部に入っていた。毎日帰りは遅かったような気がする。あまり興味を持っていなかったことは確かだった。しかし僕も中学3年生になり受験について考えなければならなくなった。そこでも僕は自分の意思をあまり掘り下げなかった。母が、兄が行っている高校を勧めてくれたのだ。中学校ではあまりパッとしなかった兄が高校ではキラキラと輝いて生活をしている。おそらく僕にもそんな学生生活を遅らせたかったのだ。僕はあまりこだわりがなかったけれど「じゃ、それで」というような気持ちでその私立高校を専願で受験し、勉強の甲斐もあって合格した。

・高校時代

 部活動は兄と同じ和太鼓部に入った。それも何となく適当に選んだのだ。毎朝、2キロほどの校外走が朝練で課された。当時、人生最大体重の僕には厳しかったが、元来ハマると一生懸命になってしまう僕は和太鼓にハマってしまっていたのだ。当時はしんどかったけれど、こんなに一生懸命になれるものもなかった僕は毎日がとても楽しかった。目立つことが好きだった僕はできるだけオーディションで勝って舞台に立てるように練習も無茶苦茶にした。その甲斐あって同期の中ではたくさんの舞台に立てていたと思う。和太鼓はいろいろな種類があって小さい太鼓や細長い太鼓、大太鼓や抱える太鼓などがあった。ここでも僕は力自慢なのと兄が大太鼓をしていたという理由で大太鼓を担当した。もはや自分が何が好きかではなく、周りの人の真似をすることが無意識になっていたのだ。それでいいと思っていたし、それがいいと思っていた。努力はする、ただし目標や分野は誰かに選んでもらったり、真似をしたり、そんな生き方になっていた。大学の選択も無論、兄と同じ大学、学部、専攻を選んだ。(表向きは「国語の教師になるために最も近道だから」という理由だったが、その理由すら母の文言だった)

・大学時代

 僕は2010年、立命館大学に入学した。サークルは高校からの流れで和太鼓のサークルに入った。もちろん兄も入っていた。ここで社会人になっても付き合いが続く友人が幾人かできたのは運の良かった事だと僕は思っている。大学生活はサークルを中心に恋愛をしたり、バイトをしたり、一人暮らしをしたり、ファッションに興味を持ったり、勉強する分野を自分で選び取ったり、それまでにはなかった事が増えてとても楽しかった。一方で今まで能天気に生きてきた僕自身の陰の部分に気づいたのも大学生の時だった。よくある大学生病だけれど、自分の自尊感情の低さに気づいたのだ。毎日「ああ、何で僕はこんなにダメなんだろうか」と具体性のない自己憐憫に浸りながら自分に酔っていたのだと思う。

 

・職業選択

 晴れて僕は保育園時代からの夢である教師になった。大学生までの僕は自分がコミュニケーションが得意で、軽いノリでうまいことやっていけると思っていた節があった。しかしその自身は見事に打ち砕かれた。なんせ緊張すると変なテンションになり周りの先生方には引かれる。生徒ともうまく会話できない。授業や教師としてのキャラは毎度お馴染みで、周りの先生の真似。毎日学校に行くのが苦しく、中学生以来、仮病で一週間くらい大人の不登校になったこともあった。「ああ、自分はダメなんだ。普通に人とやり取りすることができないんだ」という気持ちが生まれた。斜に構えて、「どれだけ仕事を一生懸命にやっても、うまく会話したり根回しできたり、偽りでも笑顔でいる人の方がうまく行くんだ」と考えては、そうしようとしてもできない自分に嫌気がさした。そんな中でも、教師になって1、2年の間、直属の上司になった先生は見捨てず、励ましながら面倒を見続けてくれた。期待をかけてくれた。不器用な僕を理解してくれた。その先生も周りの評判はめっぽう悪かったけれど、そんなことを一切気にしていないようなそぶりだった。先生のお陰でとにかく2年間続けることができた。一方で、教師としての自分に限界がきていたのもその頃だった。親や学校長に相談をして、辞める前に学校を異動することを提案された。環境を変えて、そこから考えても遅くは無いと言われ、僕もその通りだと思った。そして教師として3年目。僕は同期の先生よりは比較的に早く2校目に赴任していた。その学校は若い先生が多く、そして和気藹々と働いていた。そんな学校で働けることがとても楽しかった。「良かった、これからも教師を続けられる」と思っていた。おそらく母親や父親も安心していたことだと思う。そして教師として4年目。この年が、教師として最後の年となった。中学校1年生の担任としてバリバリに飛ばして頑張っていた。僕のクラスはヤンチャな男子に、ツンツンした女子が多く中々に元気な学級だった。押さえつける僕に反抗する生徒。学級は荒んでいった。そんな中、僕が教師を辞めることを決めたきっかけとなった事件が起きた。僕のやり方に納得のいかなかった家庭と揉めてしまったのだ。もちろん落ち込む僕。僕は退職届を校長室に置いて逃げてしまったのだ。地元まで車を運転し、心配して仕事を早く上がってくれた母親と食事に行く。母親は僕のことにはあまり触れず、母親自身の失敗談などを語ってくれた。その優しさに僕は初めて母親の前で涙を流してしまった。その後、学校長と学年主任の先生に電話をして学校に戻った。けれど、それと同時に、今年て辞めようという意思も固まった。次年度からやることを探しているうちに高城剛さんの「21世紀の英会話」という本に出会った。出版されて数年経っている本だったけれど、それまで英語に関心のなかった僕になぜか響く内容だった。そこには低資金で行けるフィリピン留学について書かれていた。僕は直感的に「これだ」と思い、すぐさま目標をそこに定め、オンライン英会話を始めた。その日から僕は、できるだけ仕事を早く上がり、22時には寝て、朝5時40分に起きて、6時から7時まで英会話。その後、30分程度読書をして仕事に行く生活を送った。とても充実して、楽しかったことを覚えている。「ああ、人は目標ができるとこんなに楽しいんだ」「自分で選ぶことって大事なんだ」と肌で感じた瞬間だった。本からたくさんの価値観を得た。気づくと半年で100冊以上の本を読んでいた。それまで読書なんか全くしなかった僕にとっては大きな変化だった。自分の人生が拓けて行く感覚があった。

 

 

 

 

これまでの自分には自分がなく、だからこそこれからは自分を持ちたいと思っています

最近よく考えるのが、他人を基準にすることなく自分だけを見て自分の成長を喜べるようになればそれが一番幸せなんじゃないかということです

 

僕の周りには僕より英語が喋れる人が山ほどいます

きっと留学経験なんかなくても僕よりよっぽど上手な人は沢山います

その人達と比べると自分のダメなところが浮き彫りになります

 

でもそこを見る必要はなくて、昨日より自分が成長できればそれでいいと

思えるマインドセットに切り替えようと努力をしています

 

 

 

とりあえず今後考えている予定

1 スラムに行く(パシル、ロレガ、マクタン橋)

2 ピザ食べる(まだ食べていない・・・。一枚でしか売ってないので一人っ子の僕

        には辛い)

3 レチョン食べる(まだ食べていない・・・。豚・鳥丸焼きでしか売っていないので

          一人っ子の僕には辛い)

4 平日学校をサボってモアルボアルのフィエスタを見に行く

5 再びBUKO JUICEを飲む

 

とりあえずこの辺りでしょうか。本当に僕は食べることと移動が好きなようです

本当に好きなことは空気と同じで、できなくなったときに初めて気づくと言いますが

僕の場合本当に好きなのは食事と移動かもしれません

 

昔から多動傾向にあるのでじっとしているのは我慢ならないたちで移動できないのが辛いのは自覚ありまくりですが。

 

最後に今日撮った写真をいくつか貼って終わりたいと思います

 

今日行った教会

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学校に最も近いマーケット(始めて行きました)

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このお姉さんが売っているドリンクが激ウマでした

ヨーグルトドリンクの中にイチゴやバナナ、フルーツゼリーなどが沢山入って10ペソ!

これは毎日飲みに行きたいです

上記にも書きましたが、フィリピンにはBUKO JUICEというものもあって

ドリンク類は本当に美味しいものが多いと思います

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先日バレーボールをしているおじさんからもらったBUKO。どこを探してもありませんf:id:hira-jasorede:20180503195532j:plain