フィリピンと日本の人生観の違い
最近マンツーマンの授業の先生を変えたのですが、
その先生(Lyleと言います)が、これまでの先生とは違いなかなかスパルタな感じで
緊張感を持ってレッスンができています
この授業は「general conversation」(一般的な会話)がテーマになっていますが、
毎回、議題ごとにしっかりとしたディベートをすることができています
今日のテーマは、2つ
・コンピュータは人間にとって不便なもの?
・大学での時間は価値のあるもの?
というものでした
その中で僕は、
・大学生の多くが自分の専攻と関係のない職についている
・多くの日本人にとって大学に行くことが常識となっており、
目的意識を持って学ぶということが困難である
・「大学はモラトリアムである」という言葉がある
ということを根拠に価値はないと言いました
Lyleeが
「なぜ目的がないのに大学に行くの?無駄じゃん」と言うので僕は
「大学に行くと言うことを目的に大学に行くんだよ」と返し、続けて
「僕もそうだったし、多くの人がそう。でも僕はそれは無駄だと思っているよ」
と言いました。僕の場合は大学で教員資格を得て、それが教職に直結していたので全然無駄ではないですが、もっと根元的に「何がやりたいのか」を見定めて大学に行かなければ無駄であると言う意味合いがLyleには伝わっていたと思います。
もうすでに他の記事に書いたことなので割愛しますが、
・多くの人にとって、小学校〜就職というレールを外れるということに抵抗という言葉以上に意味合いの大きい抵抗感があるということ
・自分もそのレールに乗っていたということ
・でも自分はあえて外れたということ
・仕事は自分に適しているものを探さないといけないということ
・今自分はそれを探しているところだということ
するとスパルタなLyleの顔がほころんで、
自分のこれまでのキャリアについて話してくれました
・自分はマネージメントを専攻し、それに直結した仕事をしていた
・仕事は本当に好きだったけれど周りの環境が好きになれず2年でやめたということ
・それで教職に興味を持って志し、3Dに就職したこと
・今はここでの仕事にも少し情熱を欠いていること
・将来的に日本・ベトナム・台湾のいずれかで教職をしたいということ
・自分の知識を人々に共有していきたいということ
次いで、Lyleは僕にこう言いました
「多くの日本人の学生から聞くけど、日本人は仕事を辞められないんだってね。
フィリピンでは合わなかったら3ヶ月でも辞めるよ。合わないのだから仕方ない。
なんでやめないの?」と聞いてきました。
僕は
「仕事を辞めるというのはレールから外れるということだからだよ」
と言いました。
次いで、
「日本人にとってレールから外れるというのは悪い意味で大きな意味を持つんだよ。例えば、昨年、就活に失敗した大学生が1000人以上自殺したんだ。就活に失敗するというのは大きくレールを外れることで、彼らはそれに耐えられなかったんだよ」
と言いました。
Lyleは言いました
「フィリピンでは自殺は本当に少ない。宗教が布教していて、自殺をすることは罪であるということも起因しているけどね。フィリピン人の自殺の理由の第一位を知ってる?
失恋することだよ。」
僕は驚いて思わず聞き返してしまいました。
Lyleは続けて、
「第二位はいじめかな。特にインターネット上の。だけど仕事関係で自殺なんて絶対にありえない。(文法に厳しいLyleですが「never never a job,,,,」と繰り返し言っていました)」
Lyleからフィリピンの言葉を聞きました
「Come what may」(何があっても)
L「もし君が今500ペソしか持っていなかったらどうする?
僕「一生懸命働きます」
L「それは明日のためだよね。でもフィリピン人はそうはしない。私たちが見ているのは、今日だけだし、今日以外のことは「nobody knows」(誰も知らない)だよ。今日生きているということだけに集中するべきなんだよ」
(そういえばこの考え方、マインドフルネスですね)
最後にLyleは彼女が好きなスティーブ・ジョブズの言葉を引用して授業を終えました。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?
- Steve Jobs (スティーブ・ジョブズ) -
昨日からフィリピンの文化や歴史に関する本を読んでいるのですが、こんな記述があり思わずメモしました。
子どもが世話をされ 、庇護され 、甘やかされる期間が長いことである 。このように周囲の大人や年長の者たちが子どもに対して甘く寛容であるため 、子どもの側に依存的な性向が助長されやすい 。依存 ( d e p e n d e n c y )という概念は 、アメリカのように自立が善であり望ましいと考えられているような社会にあっては 、精神的あるいは肉体的な弱さや未成熟を意味するが 、フィリピンではそうした否定的な含意をもたない 。ただし 、子ども時代の一方的な甘えや依存の関係は 、成長するに従って 、他人との協調や 、さらには協力と相互依存の関係へと発展してゆくべきものとされている 。濃密な人間関係の中で助け助けられ 、互いに支えあって暮らしてゆくことは 、重要な人生哲学であり 、理想的な社会生活なのである 。
甘えや依存の関係が将来的には他人との強調や協力・相互依存へと発展して行くべきであるという考え方が素敵だなあと思いました。自己責任、自己責任ではしんどくなってしまうに思っています。
フィリピンにはこのような価値観があるからこそ、「Come What May」と言えるのかもしれません。