真似とオリジナルの線引き
ずいぶんと前からもやもやとしていた気持ちを
今日やっと言葉にすることができました
記事のタイトル「参考と真似の線引き」です
以前、自分の人生におけるコンプレックスについて詳細に書いたのですが、
簡単に言えば「人の真似ばかりしてきた」ということがコンプレックスだったんですね
それは「オリジナルでありたい」という気持ちの裏返しなので
自分なりにずっと、自分にとってのオリジナルは何か?と考え続けてきました
今日の授業の中で、
僕は特に結婚とかもしようと思わないし、車や家もいらない。
それが自分を幸せにするとも思わない。
当たり前に述べられている「幸せ」が自分を幸せにするとは限らないし、
自分は何があれば、どういう状態であれば幸せなのかを考え続けたい。
という話をしていました。
割と「結婚しないの?」とか「将来どうするの?」と聞かれることが多いので
これと同じことを僕は言い続けてきました
僕は本心からそう考えているつもりですが、この話をするたびに引っかかることがあります
それはこの考え方の着想を本から得たということです
本を参考にして着想を得る、これは当たり前のようなのですが
じゃあ真似することと、参考にすることの違いってどこにあるのだろう?と思うのです
どちらも「あ、これいいな」と思って自分に取り組むという点では同じですし、
じゃあ本を参考にするということも要するに真似をするってことなのかな?と思うと
自分の考えやあり方はオリジナルなものなのか、他人の真似でしかないのか、と逡巡してしまいます
僕が真似を嫌うのは、どこかで自分の責任を放棄しているように感じるからです
誰かの真似をした時にその自分が否定されても、本当の自分を否定されることはない、というとてもゆがんでいる自己防衛のように思うのです
誰かのキャラを真似したり、誰かの主張をそのまま自分の主張にしたり、
誰かが良いと言ったものをそのまま自分のお気に入りにしたり、
その逆で周りが嫌がっているから自分も何となく嫌ってみたりとか。
自分の頭で考えずに周りの色に染まってしまうことから避けたいのです
全てはオリジナルの自分に自信が持てないことが原因なのでしょうけど、
「自分の頭で考えられなくなる」というあまりに大きな代償がついてきます
でも一方で、他者から学ぶことなしに成長はないようにも思います
こんな考え方があって面白いなとか、
この考え方は自分には合わないけど、その逆の立場はどうだろう?とか、
そんな試行錯誤の中で思考が深まっていくと思います
この記事を書く段階で、真似とオリジナルの線引きの答えは出ていなかったのですが、
書いている間に思ったことは、
「情報を鵜呑みにせず、自分の頭で考えて、批判されたとしても自信を持って主張できること」というのがオリジナルの最低条件かなと。
逆に「多数派や人気のあるものに迎合して、思考を働かせず、批判されたときに責任を取れない、取るつもりがない」というのが真似かなと思いました。
以前、ネット上で「自分の言葉を取り戻す」という言葉を見て何だかしっくりきたのですが、僕のブログは「自分のオリジナルの言葉を取り戻す作業」であるように感じています
学生の頃から考えていたこと、だけど周りには主張できなかったことを
今の自分の身の回りの出来事などと照らし合わせながら紡いでいく感覚です
思考は曖昧なもので自分ですら明確に捉えることは難しいです
モヤモヤと悩み苦しかった気持ちを「言語化」することを通じて解消してくれるということはよくあることだそうです
今までの僕は思考してきたものの、それを言語化する術を持ちませんでした
だから今、こうやって毎日記事を書き続けられるのかもしれません
こうやって記事にすることすら必要がなくなった時が
もしかすると自分にとって一番幸せな状態なのかもしれません