COME WHAT MAY AND I LOVE (僕の解釈)
少し前に似たようなタイトルの記事を書きました
「May What Come」文として間違っています
今回のタイトルのものが正しいです
ちなみに僕のブログのタイトルの「dialy」も本当は「diary」です
天然で間違えています
恥ずかしいですが、見るたびに自分の英語力を思い知れるのであえて直しません
さて今日は「Come What May And I Love」という言葉について僕なりに考えたいと思います
検索すると「どんなことも愛しなさい」という翻訳になるそうです
「どんなことがあってもそれを受け止めなさい」という自省を込めた言葉のように聞こえます
僕は仕事を辞めてから、
・イレギュラー(不規則な出来事)、欠陥を愛すること
がもしかしてとても大切なのではないかと考えていました
それまでの僕は、予定調和で物事を考えてそれからずれたときに
受け止めきれなかったり、怒りや失望感を抱いたりしていました
しかし自分の外の物事を自分が操ることはできませんし、
「欠陥がない」ことを前提に誰かや何かを見ることに意味がないと気づきました
例えば教師をしている時、「褒める」ということを前提にある生徒に対すると
その生徒の行動に欠陥があったとしてもその欠陥を見て見ぬ振りしたり、実態を正確に捉えることができなかったりしました
決め打ち、予定調和ありきだとすごく楽なのですが、
必ず実際に対しているものとのズレが生じます
不規則なことが起きて当たり前、人や物に欠陥があって当たり前。
むしろそれを認め、愛することがストレスフリーに繋がりましたし、
柔軟な思考、行動に繋がりました
どんな不祥事があっても「なんとかなる」と思える思考は、
どんな状況下でも最強なのです
例えば上海旅行の際、
マニラから上海に飛び立つ寸前に予約していた宿から連絡がきて泊まれなくなりました
向こうではSIMカードを買ったにも関わらず会社側のミスでしばらく唯一の手助けとなる知り合いと連絡を取ることができませんでした
(これは僕の責任ですが)英語が全く通じず自分の身一つで代わりに取った宿に行かなければなりませんでした
それでも僕は「まあナントカなるし、むしろ面白いやろ」と考えていました
フィリピンではイレギュラー、欠陥ばかりに出会います
遠方に出た際、帰りの便の車が予約していたのに来ず、他の手段を探して帰らないと行けなかったり、
Dumagueteに行く際、フェリーを使いたいてくても、フェリースタッフの言葉が全くわからないし、インターネットにも詳細が書かれていないので本当にこの便で行って、帰って来れるのかわからなかったり、
結局、同じフェリーでは帰れないことがDumagueteに着いてからわかったので他の船を探さなければならなかったり、
借りたバイクが整備不良で山の頂上付近で故障したり。
ヒッチハイクの時だって、たくさんのイレギュラーに出会いました
それでもそれぞれの出来事を愛することができました
ヒッチハイクの時に気づいたことなのですが
「どんなイレギュラーがあっても絶対に周りが助けてくれる」と思えたんですね
その気づきは多分間違っていなくて、上記の出来事それぞれに助けてくれる人が必ずいました。だから安心してイレギュラーに身を任せようと今は思っています
「Come What May And I Love」「どんなことも愛しなさい」
って響きは少し厳しいような気がするのですが、
僕なりの解釈では、
「どんな時でも助けてくれる人はいるから安心して時流に身を任せていいよ」
くらいの意味合いに感じます
昨日か一昨日にも書きましたが、タイに行くことを決めてSNSにその旨を書き込んだ時も本当に色々な人が声をかけてくれました
「○○は面白いで」
「本当は××に行って欲しいけどなあ」
「ローカル好きなら△△が面白いと思うよ」
「知り合いにタイの人がいるから紹介するよ」
「よく知らないけど応援してるしまた話聞かせて」
「余白を作る」とも繋がるのですが、
周りに身をまかせる勇気を持つというか、
周囲を信じる勇気を持つというか、
そういう勇気を今は持てています(この話題でまた記事を書きたい)
これからも自他両方のイレギュラーや欠陥を愛して行きます