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【書評】『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』

 困窮邦人という言葉を知っているだろうか。これは海外でホームレス然として生活をしている日本人のことを指す言葉だ。

 

 彼らはフィリピンやタイ、中国、韓国そしてアメリカなど様々な国に散らばっている。

 

 海外で散財した者もいれば、夜逃げのような形で日本を去った者もいる。彼らの多くはビザの延長申請を行う費用すら払えず不法滞在という形で息を潜めている。

 

 

 

 

 彼らが海外でその生活を窮しているのは自己責任だろうか。

 それとも社会問題だろうか。社会問題と言えるのならば彼らに救済は必要だろうか。

 

 

 

 

 

 

 このことを考える前に、僕の実体験を交える必要がある。

 

 丁度1年前の今日、僕は早朝のまだ誰も来ていない職場に赴き、その場で作成した辞職願を管理職の机の上に置き去った。4年続けた仕事を誰にも相談せずに辞めようとした。

 

 楽しいことよりも辛いことの方が多かった前職。仕事上のトラブルがきっかけで僕の心はあっさりと折れてしまった。

 

 僕は保育園から就職までなんの苦労もせずに生きてきた。それは同時に自分の将来に対して熟慮することが少ない人生だった。

 

 就職難と言われる昨今だけれど、そのような人は意外と多いのではないか。

 

 幼い時に「先生になりたい」と思って以来、その考えを変えることはしなかった。

 

 自分の将来に無頓着だった。ただ決められたことを人一倍頑張ることが好きだった。それが自分にとっては楽だった。

 

 だから辞職願を出したことが初めての挫折だった。

 

 全て自分のせいだと思い、自分を責めた。そして日本から逃げるかのように海外に飛んだ。

 フィリピンとオーストラリアで語学学校に入学することにしたのだ。

(理由は他記事を読んでください)

 

 

 

 

 退職をしてから海外に行くまでの3週間、僕はいくつかの派遣労働をした。

 

 パン工場、郵便局の下請け会社そして野菜の集積所だ。

 

 僕よりも年上のおじさん達、それも人と接することを得意としない人達が驚くほど大勢働いていた。

 

 喋る必要がなく、機械の一部となれる人材ほど評価される職場だ。ただその仕事に人間味は一切ない。文字通りロボットだ。僕はその光景が頭に焼き付いている。

 

 その後、語学学校に入学した。多くの日本人がいた。英語を学びに来たはずの彼らの多くが日本人ばかりで集まり、日本語を喋っていた。

 

 僕はおかしいと感じた。英語を勉強しに来たのではないのかと。しかしその後に思った。彼らも僕と同じく日本から逃れようとしたのではないのかと。

 

 日本から逃れ、日本人で集まることは矛盾しているようだが、目的が一緒ならば同士とも言える。

 

 

 

 

 

 

・フィリピン人は知らない人でも救おうとする国民性を持っており甘えられる。

・物価が低く、貯金を切り崩すことでしばらくは生活ができる。

・困窮邦人には男性が多い。なぜならフィリピン人女性を追いかける人が後を立た

 ないからだ。

 

 上記の3点は、フィリピンにいる困窮邦人達の主な滞在理由だ。他国の困窮邦人達の多くも似たような理由を持っているだろう。

 

 

 

 困窮邦人や日本から逃れた若者達(ここに僕も含まれる)、僕たちは自己責任という言葉で断罪されてしまうのだろうか。

 

 それとも僕たちが適応できない社会に問題があるのだろうか。自己責任と社会問題の境界線を引くことは難しい。

 

 

 

 ともすれば日本は何も考えずとも生きていける社会だ。社会にレールが引かれているからだ。その代わりレールから外れた者への風当たりは厳しい。就活に失敗して自殺をする、いじめを受けても引きこもることができずに自殺する。決められたレールから外れることの方が死ぬことよりも苦痛だと感じる人が実際にいる。

 

 

 

 

 田端信太郎さんの『ブランド人になれ!』に

「自信には2種類あって、一つは根拠なく自分を信じられる『Confidence』、もう一つは物や肩書きを身にまとって得られる『Self-esteem』という」

 

といったようなことが書かれていた。確かにその通りだと思った。同時に、『Self-esteem』にばかり依存している人が多いと思った。

 

 当たり前に生きていける日本では「生きているだけでOK」とはならない。

 

 子供の頃から「いい点数を取れたらいい子」、「行儀良くしていたらいい子」、「空気を読めたらいい子」と条件付きで評価されることが多い。

 だから周りからの評価に依存してしまう。そして『Confidense』自体は成長しない。ではその評価の枠組みの中で能力が発揮できない人たちはどうすればいいのだろう。

 

 

 僕は日本社会の中で適応できていない人たちが一定数いるということを、派遣の仕事や語学学校から肌感覚で感じた。

 「困窮邦人」というと遠い世界の存在に感じてしまうかもしれない。だけど彼らの姿は、今必死に優等生になろうとしている人達の未来なのかもしれないのだ。

 

 よもや日本から逃げたと豪語する僕なんかは他人事のように思えない。

 

 日曜日の夜が憂鬱で金曜日の夜だけが楽しみな大人達や、学校のテストで100点を取ることだけを目標とする子供達にも他人事だと思って欲しくない。

 

 

 困窮邦人が自己責任だと言い切れるだろうか。

 逆に社会問題だと割り切ることができるだろうか。

 僕はどちらを選ぶことも今はできそうにない。

 

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