【ADHD】僕の欠陥について書きました
これは自分の欠陥をいかに自分の強みに変えていくかの考察です
ポジティブに書いていきたいと思います
突然ですが僕にはADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向があります
ADHDの特徴について
ADHD(注意欠陥・多動性障害)は不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられる発達障害のことです。年齢や発達に不釣り合いな行動が仕事や学業、日常のコミュニケーションに支障をきたすことがあります。
あります、と書いたのは特に診断を受けたわけでもないですし
あくまで主観的なものだからです
教師をしていた時には診断を受けていた生徒を見ていましたし、
その生徒は服薬をしていなければ日常生活に支障を来たしてしまうような生徒だったので、安易に僕がADHDです、とは書けないと思いこのように表現しました
障害と名のつくだけあって日常生活に障壁が生まれることが僕にも多々あり、
それが自分の心を圧迫する要因となっていました
1 仕事上で「やらかし」キャラとなった僕
以下に今パッと思いつく限りの自分がよくやる「やらかし」を書きました
すぐ物をなくす、しかもその悪癖を直せない
コップなどをすぐ倒してこぼす、しかもその悪癖を直せない
気にしてはいる、けど直せない
雑音や人の癖がすぐ気になって集中できずすぐイライラする
落ち着きがない、じっとしていられない
(多分)つまらない空間が人一倍苦痛
友人間では運よく理解してもらえる人が周りにいたようで
あまり自分の傾向について重く考えたことはありませんでした
しかし、いざ社会人になると
生徒のテストを無くしたり、同僚の机にコーヒーをぶちまけたり、
プリントをぶちまけたり、机をこかしたりと
様々な「やらかし」をしでかし、
見事職場での僕のキャラは「やらかし」キャラになりました
同僚や先輩方は優しい方が多かったので、それを面白がってくれましたが
(もちろんそうではない人もいましたが)
僕の中では
「自分はちゃんとできない」「落ち着きがないのは社会人らしくない」
「どうせまたやらかしてしまう」「腰を据えて何かをすることができない」
「なぜ人一倍真剣にやっているのに人並みにできないのか」
と、どんどんネガティブな方向に流されていってしまいました
もちろん自分だってスマートに何事もこなせるようになりたいし、
ふとした作業や日常的な物事をそつなくこなしたい
表情こそ普段通りにしていましたが、内心ドキドキしながら何かの作業をしていた、
ということが日常茶飯事にありました
前の職場では誰かの誕生日にケーキを学年の先生達と食べることがありましたが、
後輩の僕が切り分けることが多かったのです
失敗の許されない「他愛ない日常的な作業」に精神をすり減らしながら取り組んだことを思い出します
2 この欠陥を強みに変える
ADHD(不注意、多動性、衝動性)というのはあくまで人間の傾向だと考えています
最初に欠陥と書いたのは、結果として職場で自分にとってマイナスに働いた傾向であったのでそのように表現しました
一方で僕の主観的な強みを挙げると、
・マルチタスクが得意
・とにかく何かに着手することは早い
・様々なことに興味が向く
一つ一つの仕事は雑なのですがいっぺんに色々なことができますし、
見切り発車で何かに取り組み始めることも得意です。
また教師をしていた時でもどんなに忙しくても時間があれば
とにかく自分の関心が赴くままに行動を起こしていました
今考えると、幼い時からこのような強みを持っていたはずなのですが
いつの間にか自分の傾向の負の側面にばかり着目していました
それになぜか自分の傾向を過小評価どころか否定していたように思います
「仕事が早くても完璧じゃないからダメだ」とか
「いくら行動してても経験が浅いからダメだ」とかですね
今思うと全く根拠のない否定です。
自分に自信がないと無理に自分のことを否定してしまうのです。
今、フィリピンにいて僕は様々なことに手を出しています
・セブ島のスラムやセメタリーに行く
・フィリピンの食文化に触れる
・セブ島以外のフィリピンの都市を見て回る
・フィリピンでの友人を作る
・ブログを書く
・SNSを発信する
・英語を勉強する
・他国に行く
・自分の考察を進める
・教会に行く
・マーケットに行く
今思いついただけでもこれだけのことがあります。まだまだ考えると出てきそうです
ふとすると、自分は英語を勉強した先に何をするのか?意味があるのか?と思ってしまう瞬間がありますが、これらのほとんどのことが今、ここにいなければできないことばかりです。本当にここに来てよかったと思います。
これからも自分の傾向を強みにして行きます。
欠陥については、これまでは直す方向で努力していましたが、これからは無視する方向で努力して行くつもりです。欠陥も含めての自分なので。
それでは長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。
最後に、僕がこの記事を書こうと思ったきっかけのtweetを紹介しておきます
NHKが朝にやってた発達障害についての番組みてるんだけど、こういう特性の人、昔からいたはずで、今みたいにいろいろわかってない時代だと今以上にすごくつらかったんだろうなと思う。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年4月30日
みんないろいろ苦手なことってあると思うんだけど、そのうち「その時代の社会が全員に求めることができないケース」のみが「発達・障害」って呼ばれるんだよね。全員が狩りをして生きてた時代だと「気持ち悪くて殺生なんてできない」って人が「生きる力のない障害者」と見做される、みたいな。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年4月30日
今は「文字が書けること」が全員に求められるから、文字が書けないと学習障害と言われるけど、狩りの時代なら書けなくても障害とは呼ばれない。さらに「次の時代」には人間が文字なんて書く必要はなくなるかもで、そしたらまた障害ではなくなる。自分の特性が障害と呼ばれるかどうかは非常に流動的。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年4月30日
今の時代はコミュニケーションが(仕事に)大事だからそれができない人が、コミュニケーション「障害」とか呼ばれるけど、んなもん、全員が一日中もくもくと農作業にいそしむべき時代ならまったく障害とは認定されない。だってその時代の「仕事に不要」だから
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年4月30日
みんないろいろ苦手なことってあると思うんだけど、そのうち「その時代の社会が全員に求めることができないケース」のみが「発達・障害」って呼ばれるんだよね。全員が狩りをして生きてた時代だと「気持ち悪くて殺生なんてできない」って人が「生きる力のない障害者」と見做される、みたいな。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年4月30日